瞬が戦闘中に頭部を強打して記憶を失うという、ありがちなようで滅多にない事態が発生したのは、氷河の恋の苦悩も限界に達しかけたある日のことだった。

「頭部打撲が原因の全生活史健忘。自分の生活史の記憶のみを失っていて、言語や生活習慣、社会的出来事の記憶は残っている。自分に関わることだけを、すっぱり忘れているわけだな。知能は正常、日常生活を送るのに支障はなし」

つまり、瞬が忘れてしまったものは瞬自身に関わることだけだと、紫龍は言った。
瞬自身に関わること──瞬自身のこと、瞬の仲間、瞬の兄弟、瞬と瞬の仲間たちが乗り越えてきたこれまでの闘い、幼い頃の思い出──それらのことだけだ、と。

「心理学的な要因によって引き起こされる記憶喪失とは違うから、徐々に回復するだろうと医者は言っていた。回復がいつになるのかはなんとも言えないということだったがな。数日で回復するかもしれないし、10年経っても記憶は戻らないかもしれない。永遠に回復しないという可能性もないではないらしい」
医者からの伝聞を氷河に伝える紫龍は、この事態をあまり深刻には受け止めていないようだった。

聖闘士には、楽しい思い出よりも辛い思い出の方が多い──特に、人を傷付けることが嫌いな瞬には。
紫龍は、そう思っているのかもしれなかった。
命があって、人として生きていくのに支障がないのなら、それでいいではないかと。

「闘えないのか」
「わからん。聖闘士だったことも忘れている。小宇宙というものが何なのかも、わかっていないようだな。ま、一概に悪いこととも言えないだろう」

記憶を失っていない瞬なら、記憶を失った自分自身を悔やむことだろう。
辛かった過去を忘れてしまうことは、必ずしも幸福なことではないと考えて。
しかし、現に瞬は記憶を失っており、記憶を失った瞬には、その事態を悔やむことはできない。
失われたものが何なのかさえ知らない者に、失ったものを惜しむことはできないのだ。






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