城戸邸に瞬が帰還した当日は、極めて平穏に──特に氷河には心地良く──終わりかけていた。

「おまえの部屋にあるものは、おまえの好きに使っていい。朝食は、毎朝7時には準備できてるから、さっき案内したダイニングの方に下りてこい」
瞬の部屋のドアの前で、氷河は明朝のことを瞬に指示し、そして、『おやすみ』を言おうとした。
そんな氷河を見上げ、瞬が、いかにも恐る恐るといったていで尋ねてくる。
「あの……僕と氷河は、どの程度の……どんなふうな……」
「どういう?」
「その、色々あるでしょう。こ……いびと同士って」

氷河を見上げ、見詰める瞬の瞳には、どこか気が引けているような ためらい浮かんでいる。
それは、赤の他人の思いがけない親切に戸惑う人間のそれに似ていた。
瞬は、もしかしたら、心尽くしの世話をしてくれる恋人・・に、自分が恋人としての務めを果たせないことを、あるいは、それを求められることを恐れているのかもしれなかった。

申し訳なさそうに身体を縮こまらせている瞬の様子が、氷河を切ない気分にさせる。
記憶を失う以前の瞬に、ずっと言えずにいた言葉。
あの言葉を瞬に告げていたとしたら、瞬はやはり、こんなふうに心苦しそうに瞼を伏せたのだろうか──と、氷河は思った。

その切ない気分を振り払うために、瞬の肩に手を置く。
そして、氷河は、そのまま、瞬の唇に自分の唇を重ねた。

「こういうことをしてほしいのか」
無理に自然に、軽く笑いながら──それがちゃんとした微笑になっていたのかどうかは、氷河自身にもわからなかったが──言う。

「あ……」
瞬は、あまりに唐突な氷河の所作に、大きく瞳を見開いた。
2、3度、瞬きをし、それから頬を染めて俯く。

だが、瞬は決して、氷河のしたことを不快に思っているようには見えなかった。
まるで、初恋の相手と初めてのキスを交わした子供のように──実際、瞬には、それは初めてのことだったのだろうが──瞬はただ、恥じらっているだけのようだった。

事実、そうだったのだろう。
瞬は──それが氷河の自惚れでなければ──、至極幸せそうな恋人そのものに見えた。
氷河は、そんな瞬を、そして、自分自身を、奇妙に思ったのである。
記憶のない瞬になら、こういうことも臆することなくできるのに、以前の自分はなぜ、瞬に『好きだ』と告げることさえできなかったのだろうか、と。

以前の瞬と今の瞬とでは何が違っているのかが、氷河にはわからなかった。
以前も今も、同じように柔らかな物腰、優しい人当たり、同じように遠慮がちで、同じように可愛らしい瞬。
氷河は、記憶を失って変わってしまったのは、瞬ではなく、自分自身のような気にすらなった。


ともあれ、“嘘”でできあがった恋人同士は、そんなふうにして、親しみを増していった。
瞬は少しずつ、氷河の好意を自然に受けとめるようになり、時には、まさに恋人に対するように、氷河に甘えることをさえするようになっていったのである。






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