「氷河……」
「なんだ」
自分自身のことは忘れても、社会通念というものを忘れていないのであれば、こういうシチュエーションに置かれた“恋人”の心と身体がどういうふうに騒ぐものなのかぐらいは、わかっていてほしい──という思いが、氷河の声を素っ気ないものにする。

氷河の胸中の葛藤に気付いているのかいないのか、瞬は、氷河の腕に頬を押し当てるようにして、同じベッドの中にいる“恋人”に尋ねてきた。
「氷河は、僕が記憶を失う前にも、こんなふうにしてくれてたの?」
「……?」

質問の意味がわからない──というより、今の氷河には、それを理解する余裕がなかった。
ここでオオカミになってしまっては、今ならまだ冗談で済ませることもできる“嘘”を、“罪”にしてしまう。
氷河は、必死に、自分自身を抑えていた。

だというのに。
だというのに、瞬は重ねて尋ねてきたのである。
「こうしてるだけだったの?」

確かに瞬は、社会通念までを忘れてはいないらしい。
瞬の質問の意味を理解し、そして、氷河は慌てた。
「き……記憶を失ってるおまえに、その……できないだろう、そういうことは」

それは誤解を招く言い方だったと、言い終わってから、氷河は気付いた。
実際、瞬は誤解したらしかった。
以前の自分たちは、こうしているだけではなかったのだ──と。

瞬の声音が、悲しそうなそれに変わる。
「今の僕は、氷河が好きになってくれた僕とは違うの? 違うから?」

(そんなことを言うな、聞くな、我慢できなくなる……!)
氷河の思考回路は乱れきっていた。
無邪気なことや、猜疑心が薄いということは、必ずしも美徳ではない──そんな考えが、明確な言葉の形を成さずに、氷河の頭の中を駆け巡る。

「僕は、何もかも忘れちゃっても、氷河がいてくれたから安心できてたけど──やっぱり、違うんだね。今の僕は、氷河にとって、以前の僕とは」
氷河の横で、瞬が俯く。
自分の恋人から、こころもち身体を引いて、瞬は、寂しそうに目許だけで微笑した。
記憶を失ってから、これほど寂しげな瞬の様子を見るのは、氷河はこれが初めてだった。

「そ……んなことはない。おまえは、以前と同じに可愛くて優しくて、人を傷付けることを怖がって──誰かを傷付けないためになら、我慢もするし強くもなれる人間だ。以前と同じだ。同じおまえだ。おまえは何も変わっていない、俺が好きになったおまえと何も──」

自分が何を言っているのか、それがこの急場をしのぐのに有効な言葉なのかどうか、氷河はまともな判断ができていなかった。
どれほど言おうとしても言うことのできなかった言葉を、自分が口にしていることにさえ、氷河は気付いていなかった──かもしれない。






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