言葉ではないものを瞬の中に放って、そこから身を引いた時、氷河は初めて、瞬が泣いていることに気付いた。 途端に、氷河の上に、まともな判断力が戻ってくる。 自分が取り返しのつかないことをしてしまったことを、氷河は今更ながらに自覚した。 「瞬……」 瞬の名を呼んで、だが、氷河には、その後にどういう言葉を続けるべきなのかがわからなかった。 氷河の言葉の先を待たずに、むしろ遮るように、氷河の胸の中で瞬が呟く。 「僕は──どうして忘れてしまったんだろう……。忘れることができたんだろう……」 「瞬?」 「とっても大事なことなのに。たった1日だって忘れちゃいけないことだったと思うのに、僕はどうして、忘れることなんかできたんだろう……」 初めてではないはずの初めての行為が、瞬には辛いだけのものだったのだろうか──? 瞬の呟きは、氷河をひどく不安にした。 氷河の下で喘ぎ、必死に氷河にしがみつくようにしていた瞬の声と表情には、歓喜めいたものが混じっていただけに、氷河は、後悔の色を含んだ瞬のその言葉に困惑してしまったのである。 「い……痛かったのか? 嫌だったのか? すまん、俺は加減を忘れていて──」 「あ……。そ……そうじゃないの……!」 セックスの後で打ちしおれている男の姿など、あまり見栄えのいいものではない。 気遣わしげに謝罪してくる氷河に、瞬は、慌てて横に首を振った。 上体を起こしかけていた氷河にとりすがるようにして、瞬が、氷河に身体を寄せてくる。 無論、瞬は、今は何も身につけていない。 瞬の素肌が、氷河の裸の胸に、その体温を伝えてきた。 「忘れちゃいけないことを忘れちゃった自分が悲しかっただけ。それだけ。あの……嫌だったんじゃないよ、絶対に。僕、ずっと不安でいたから、だから、あの……嬉しかった……」 「…………」 嘘をつき、詐欺まがいのことをして手に入れてしまった相手に潤んだ瞳で礼を言われて、良心の咎めを覚えないところまで、氷河は悪党になりきれていなかった。 その時、一瞬、氷河は、本当のことを瞬に言ってしまおうかとさえ考えたのである。 無論、こんなことをしでかしてしまった後で、自分自身が楽になるための懺悔など、できるものではなかったが。 記憶を失い、自分を自分として保つためのよりどころを失って、瞬は本当に不安だったのだろう。 氷河の嘘を嘘かもしれないと疑うこともできないほどに、その嘘にすがらずにはいられないほどに、瞬は不安だったのだろう。 そして、氷河は、瞬のその不安につけ込んで、瞬を自分のものにした──のだ。 瞬をこれ以上悲しませないために、辛い思いをさせないために、氷河は本当のことを言ってしまうことはできなかった。 |