「瞬、おまえは俺を信用していないのか」 その夜、帰り着いた城戸邸で、氷河は帰国の機中で考え続けていたことを、瞬にぶつけてみた。 「え? どうしたの、急に」 突然、思いがけないことを尋ねられた瞬が、きょとんと瞳を見開く。 帰国の途についている間、氷河がずっと黙り込んでいたのは、彼が自分の脚の怪我を心配して──それも、“夜のこと”ができるかどうかを心配して──いるのだろうくらいに、瞬は思っていた。 飛行機のタラップを降りる際には、だから、瞬は、意識して軽快な足取りで、それを駆け下りて見せさえしたのである。 だが、氷河の沈思黙考の内容は、そんなことではなかったらしい。 そんなことではなかったらしいことに、瞬は初めて気付いた。 「おまえ、これまで俺に、何か頼み事をしたことがあるか? 本を買ってくるとか、花瓶の水を取り替えるとか、そんなことすら、おまえは俺に頼んだことがない。おまえは、そういうことは、いつも紫龍に頼む」 急に何を言い出したのかという思いで、返事もできずにいる瞬に、氷河は更に言葉を継いだ。 「おまえのためになら、どんなことでもやりたがっている俺がいつも側にいるのに、おまえは俺に頼ったことが一度もない。俺はそんなに信用ならないのか」 そう尋ねてくる氷河の表情は、怒っているように見えるほど真剣である。 氷河の問いの意図を完全には理解しきれないまま、それでも瞬は彼に答えた。 「人には、適材適所ってものがあるでしょ。氷河にふさわしい仕事は氷河に頼むよ」 「それって、夜のお勤めだろ」 横から、ふいに、星矢が口を挟んでくる。 それで、氷河は、ますます不機嫌になった。 「俺はそれだけの男か」 氷河は、もちろん、そのお勤めが大好きだったが、それとこれとは話が別である。 瞬の落としたハンカチ一枚を拾いあげるようなことででも、それで瞬の感謝の言葉がもらえるのなら、氷河はそれをしたかった。 ハンカチ一枚程度のことはともかく、たとえば、命のやりとりをする闘いの場において、信頼の有無は大きな意味を持つ。 瞬に信頼されていなかったら、瞬のために死ぬというような格好の良いことをする機会を逸することもあるかもしれない。 氷河は無論、瞬を残して死ぬつもりなど 「氷河、ほんとに、どうしたの。そんなことより──」 「はぐらかすな。これは大事なことなんだ。俺がおまえの信頼を得ているのかどうかという、重要極まりない問題なんだからな」 「…………」 氷河はどうやら、お茶を濁されてしまうつもりはないらしい。 瞬は、小さくひとつ溜め息をついた。 そして、言った。 「そうだね。氷河に関して言うなら、僕の気持ちは、信頼より愛情の方が勝っているかもしれないね」 その事実をはっきりと言葉にされてしまった氷河の表情が、目に見えて険しくなる。 脇で二人のやりとりを聞いていた紫龍には、それが──氷河の反応の方である──ひどく意外だった。 「何が不満なんだ? 信頼されているより、愛されている方がいいじゃないか」 氷河なら特にそうだろうと、紫龍は思っていたのである。 氷河が、それ以外のものを瞬に求めていることの方が、紫龍にはむしろ慮外のことだった。 が、恋する男の心は、そう単純なものでもないらしい。 「信頼されて愛されているのなら無問題だ。だが──」 瞬は、『愛情の方が勝っている』と言ったのだ。 『信頼し好意も抱いている』と、その二つを並立させて言い表さなかった。 「なんで? 好かれてんならいいじゃん」 氷河の憤りの訳を全く理解していない星矢の能天気さに、氷河の苛立ちがいや増しに大きくなる。 「おまえは、愛と信頼のどちらが重いものだと思っているんだ!」 それが、氷河の不機嫌の理由だった。 |