ハーデスがいつも以上に本気らしいことを感じて、瞬が身体を震わせた時だった。
これまで瞬が聞いたことがないほど冷ややかな氷河の声が、白い塔の一室に響いたのは。
「その手を離せ」

瞬の背にまわっていたハーデスの腕が強張る。
瞬が恐々こわごわ顔をあげると、そこに、驚愕を隠せずにいるハーデスの顔と、彼の首筋に押し当てられている鋭い剣の切っ先があった。

「氷河 !? 」
「瞬に触るな」

ハーデスが、長衣の内に隠している武器に手を伸ばそうとしているのに気付き、瞬は背中に冷水を浴びせかけられたような感覚に襲われた。
ハーデスが用いようとしている武器が何なのかはわからないが、それは氷河に防ぎきれる類のものではないはずだった。

が、氷河の目は、“敵”の微かな動きも見逃さないようにできているらしい。
氷河は、不審な動きを見せるハーデスの手が目的のものに辿り着く前に、その腕を彼の背中に捻りあげた。

「人間……?」
思いがけない事態に驚いたハーデスが、自身の腕の自由を奪ったものの正体を、実に差別的かつ端的な言葉で言い表す。
瞬から一歩下がって抵抗の意思のないことを示してから、ハーデスは信じ難いものを見たと言いたげな視線を瞬に投げてきた。

「ひとりで死ぬなどと殊勝なことを言っておいて、野蛮な男を引き込んだか」
「ち……違います!」
「ふん、こういうのが好みなわけか。いくら見てくれが美しくても、所詮は、野蛮で無知な人間じゃないか」
「野蛮なのは、彼等を武力で支配しようとしているあなた方の方でしょう……!」
ハーデスをなじる瞬のその言葉を聞いた氷河が、ぴくりとこめかみを引きつらせる。
彼は、長剣を握っていた手に力を込めた。

「オリンポスの者か」
「私は神だぞ」
「そうだろうな。この険しい山に、そんな鬱陶しい服を着て登ってこれるんだから」
言うなり、氷河は、“敵”の命を奪うために剣を構え直した。
が、今は身体の自由を取り戻したハーデスは、その手に小銃を握りしめている。

「だめっ!」
瞬は、体当たりをするようにして、ハーデスの腕にしがみついた。

「離せ。神に不敬を働く虫ケラに生きている権利はない」
「虫ケラなんかじゃありません! 氷河は僕たちと同じ人間です。あなたも、それはご存じのはずでしょう」
「こんなものと一緒にされるのは心外だ」

氷河は、剣も持っていない男に、必死の表情で食い下がる瞬の行動に合点がいかなかったらしい。
だが、何らかの脅威から、瞬が自分を庇ってくれていることだけは察したようだった。

「でも、同じ人間でしょう。人間としての肉体の機能は、むしろ、神々よりずっと優れています」
「瞬……? まさか本当にこんな人間・・と交わったわけではないだろうな!」
「え……?」

ハーデスが何を言っているのか、瞬はすぐにはわからなかった。
やがて、それと察して、慌てて言葉を継ぐ。
「ご……誤解なさらないでください。僕は、機械に頼らずにこの山に登ってきた氷河の体力や、その回復力に驚かされただけで……」

そう言いながら、瞬は、オリンポスの神々が不思議なほどに執着するあの行為は、神と人間の間でも可能なことなのかと、思っていた。
そして、こんな時にそんなことを考えている自分を奇妙に感じた。

戸惑いの表情を浮かべている瞬と、その横で殺意に近い敵意を発している人間とを交互に見比べていたハーデスが、手にしていた武器を床に投げ捨てる。
瞬は、素早くそれを拾いあげた。

「とにかく、どれほど強がりを言っていても、いつかはひとりでいることに耐えかねて、君は誰かにすがることになるんだ」
拾いあげた銃のセフティを手馴れぬ様子でロックする瞬に、ハーデスが、挑戦的に、そして、吐き出すように言う。

「だが、それは神でなければならない」
そう言い捨てて、ハーデスは、その場から踵を返した。

苛立たしげな足音が遠ざかっていく。
数刻の後、塔の庭から、ハーデスをオリンポスからここまで運んできたジェットヘリが飛び立つ噴射音が瞬たちの耳に届けられたが、それもやがて聞こえなくなった。






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