「そのために帰るんです」
「だから、帰さない」

それが、氷河に会う以前の、瞬の生きる目的だった。
瞬は、できうる限り人間たちに迷惑をかけずに滅びていくことが、自分に課せられた義務だと思っていた。
人間として生きることができない自分にできることは、そんなことくらいしかない。
最期の日々を過ごすための思い出は、既に氷河にたくさん分けてもらった。

氷河にその気持ちを理解してもらえることを、瞬は期待していなかった。
彼には無力な存在の哀しさなど理解できまい。
彼は無力な存在ではないのだから。
そんなものにはなれない人間なのだから。

「駄目だ。おまえが死んだら、俺が辛いから」
すべてを見越しているように見える氷河が、瞬の頬に手を伸ばしてくる。

「おまえがいないと、俺が寂しい」
彼はそう言って、瞬の顔を覗き込んだ。
「おまえがいないと、俺は生きていけない。おまえはそれがわかっているのか?」
氷河の瞳は、瞬のそれよりも切なげな色をしていた。

「氷河……?」
不思議な言葉を聞かされて、瞬は、一瞬、虚を衝かれたような顔になったのである。

瞬のその様子を見た途端、氷河の口調は、ひどく苛立たしげなものに変わった。
「知らなかったんだろう。ふん。だろうと思った」

氷河は、それこそ自分の無力に立腹したように、瞬を睨みつけた。
「おまえが無力なんてことがあるものか。おまえのためになら何でもしてやりたい俺がいて、おまえは、その俺を動かせるんだから。おまえが無力だということは、この俺が無力だと言っているのと同じことなんだぞ! わかっているのか!」

「で……でも、僕はただの──何の力もない、氷河のために何もしてあげられない、ただの……」
「おまえが何もできないなんてことはないだろう! おまえは、俺には絶対にできないことを、平気でしてのける……!」
「僕が……?」

氷河の剣幕に怯えながら、それでも瞬は彼に尋ねた。
自分にできて、氷河にできないこと。
そんなことがこの世に存在するとは、瞬にはどうしても思えなかった。

実際、氷河の答えは、瞬には思いがけないものだったのである。
それは、自分が無力だからこそ、そうせざるを得ないこと──と、瞬が考えていたことだった。
「自分の欲しいものを他人のために我慢することも、そのために死ぬことも、俺にはできない。一人で生きることも、一人で死のうとすることも、俺にはできない。おまえは、俺にできないことをしようとしている。瞬、それは俺のためなのか……?」

氷河は氷河で、自分自身の無力に苛立っていたものらしい。
瞬を見詰める彼の眼差しは、ひどく──悔しそうだった。
「だとしたら、それは見当外れもいいところだぞ。おまえがいないと、俺はただの腑抜けになって、さぞかし情けない男になりさがるだろう。だから──」

自らの憤りと弱みを隠そうともせずに矢継ぎ早に言葉を吐き出す氷河の姿を見ているうちに、瞬の瞳には涙が盛りあがってきていた。

オリンポスの神やエリシオンの神とは違う“神”が、この世界のどこかに存在するのではないかと、瞬は思った。
その、真実の神が、氷河を自分に廻り会わせてくれたのではないだろうか──と。






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