花の夢






一般に、春というものは、理由もなく胸騒ぎを覚える季節らしい。
俺は、だが、胸騒ぎを通り越して、激しい苛立ちに支配されていた。

母に俺を産ませたまま放ったらかしにしていた父親が、今頃になって、当人に断りもなく勝手に、俺を庶子として認知してしまった。
奴にそうさせた原因は、奴の正妻の息子──つまりは俺の義兄──が、飛行機事故で死んでしまったから。
奴は、正嫡を失って俄然、自分の遺伝子を受け継いだ息子に、自分が築いた財を継がせたくなったらしい。
というより、奴は、他人にそれを渡したくなかったんだろう。

俺の母は、奴からろくに養育費ももらえず、苦労して俺を育て、そして、死んでいった。
母が困窮していた時には援助の手を差し延べさえしなかったくせに、俺が成人して独り立ちした今頃になって、勝手なことをしてくれたもんだ。
父親の認知を拒否する権利が子供にない現行法を、これほど悪法だと思ったことはない。

奴が俺に与えてくれた逆境は、人に倍する生命力と野心をも、俺に与えてくれた。
今の俺は、社会的にも経済的にも私的な面でも成功している人間の部類に入るだろう。
もっとも、奴は、俺のそんな成功もちっぽけに見えるほどの巨大複合企業を牛耳っている財界の大物だそうだが。

そんな親父も、元はといえば、その経営の才を見込まれて、正妻の父の養子に入った成り上がり者。
父親(奴にとっては養父だ)が没してから数年を置かずして我が子を事故で失い、気落ちしていた妻を説き伏せてやった・・・のだと、恩着せがましく、奴は俺に言った。


『氷河、お父様を憎んでいるの?』
あれは、俺が小学校にあがったばかりの頃だった。
『それは仕方のないことかもしれないけど──ねえ、氷河。氷河が、憎いお父様にできる最高の復讐はね──』

ふと母の臨終の言葉を思い出したのは、車を降りた俺の鼻腔を、控えめな春の花の香りがくすぐったからだったかもしれない。






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