14世紀、イタリアのヴェローナ──と言いたいところですが、時代や場所はどうでもいいこと。 とある時代、とある国のとある町に、アクエリアス家とアンドロメダ家という、とても仲の悪い二つの家がありました。 “家”と言っても、そこに暮らしているのは血縁で結ばれた家族ではありません。 そこは、“聖闘士”という国家資格をとるための修行の場。 “家”に住んでいるのは、聖闘士の資格を持つ師匠と、聖闘士志願の弟子たちです。 イタリア風に言うなら、 ドイツ風に言うなら、 平たく言えば、師匠の家に弟子が住み込み、師匠の仕事を手伝いながら、弟子が技を吸収していく徒弟制度。 聖闘士の称号を得るには、一定期間修行を積み、聖闘士になるための資格試験に合格する必要があるのですが、そのための修行をするのが、この“家”なのです。 アクエリアス家とアンドロメダ家は、この町に二つしかない聖闘士育成のための“家”でした。 そして、この二つの家が昔からいがみ合っている訳は──要するに、両家の教育方針が違いすぎるせいだったのです。 アクエリアス家の家訓は、『クールに非ずんば聖闘士に非ず』。 片や、アンドロメダ家の家訓は、『優しくなければ聖闘士でいる意味がない』。 ここまで正反対の家訓を掲げている二つの家が相容れるわけがありません。 両家のいがみ合いがいつから始まったのか、それは誰も知りませんでした。 実は、両家の現在の家長ですら知りませんでした。 けれど、それは、ずっとずっと昔から、もう何代も前から──へたをすると神話の時代から──続いてきたいがみ合いだったのです。 ちなみに、現在のアクエリアス家の家長は、カミュという聖闘士で、自分の後を継がせるべく、氷河という弟子を育てていました。 「クールでなければ敵は倒せない。敵への同情は命とりになる。そして、邪悪に支配されている敵からは、完全に邪悪を取り除いてやるべきだ。氷河、私は、おまえとおまえに対峙することになる敵のために、クールになれと口を酸っぱくして言ってるんだ」 「俺と敵のために──って、そういうのはクールとは言わないのでは?」 「やかましい! 弟子のくせに口答えをするな!」 ──てなふうに。 一方のアンドロメダ家では、アルビオレという聖闘士が、瞬という弟子を預かっています。 「大事なのは、敵を思い遣り、優しさを示すことだぞ、瞬。愛は地球を救う、優しさこそが聖闘士の真の武器なのだ」 「でも、それだと、敵に侮られてしまいませんか」 「だから、聖闘士は、敵に侮られないほど強くならなければならないのだ」 ──てな感じで。 実は、アクエリアス家でもアンドロメダ家でも、ふたりの師匠は弟子たちに、わりと似たりよったりの教えを施していました。 その教育方針も、言葉が違うだけで、内容はあんまり変わらないものだったのです。 けれど、その“言葉が違う”ということが大問題。 両家は、互いに相手の教育方針を間違っていると批判しつつ、それでもこれまでは大した問題も事件もなく、平和に過ごしてきたのでした。 |