氷河と瞬が逢引の場に使っているのは、アクエリアス家とアンドロメダ家のちょうど真ん中辺りにある、小さな宿屋の2階でした。
今で言うところのファッションホテル、もしくはブティックホテル、要するにラブホテルです。
それぞれの家で会うのは危険極まりないことでしたから、それも致し方ありません。
宿の部屋は、ベッドとライティングデスクがあるだけのビジネスホテル仕様。
小さい代わりに清潔で、ブライバシー保護にも気を配られている、なかなか感じのいいところでしたので、人目を忍んで会わなければならない二人にはとても重宝していました。


氷河と瞬の師匠たちは、今日は、隣り町で開催される聖闘士たちの寄り合いに出掛けています。
二人がここで会うのは、1週間振りのことでした。

なのに──。
「疲れた……」
1週間振りの待ちに待った逢瀬だというのに、瞬の顔を見るなり──おまけに、まだナニもしていないのに──氷河はそう言って、大きな溜め息を一つつきました。

「どうしたの、いったい」
心配顔の瞬に問われると、氷河はひどく情けなさそうな面持ちになり、自分の疲労の訳を話し始めます。

「実は、昨日、クールになる特訓と称して、我が師に、『フランダースの犬』全52話の視聴を命じられたんだ。あれを見て泣かずにいられれば、クールなんだと」
「え……」

まさか、ご存じない方もいらっしゃらないだろうとは思いますが、万が一のために説明させていただきますと、『フランダースの犬』はウィーダ原作の、とても悲しい物語。
貧しい暮らしの中で純粋な心を失わず、愛犬パトラッシュと支え合って生きてきたネロ少年が、心無い大人たちの無理解と無慈悲に疲れ果て、愛犬と共に天に召されていくお話です。
原作者の国イギリスや、お話の舞台となったベルギーではほとんど知られていませんが、日本でアニメーション化され、爆発的な反響を呼びました。
作中でネロ少年が言った、『パトラッシュ、僕はもう疲れたよ』は、いまだに人々の口の端にのぼる不滅の流行語になっています。

その『フランダースの犬』全52話の視聴とは、なかなか壮絶な修行です。
1話25分として、全52話で21時間以上、それをたった1日で見るとなると、眠る時間もありません。

氷河に課せられた修行の過酷さに同情しつつも、瞬は氷河に尋ねました。
「泣かなかったの? ネロが死んじゃうとこ見ても」
「無論だ」
「ほんと?」
「疑うのか」

瞬は決して氷河を疑っているわけではありませんでした。
むしろ、瞬は、氷河を信じていたのです。
あの悲しいシーンを見た氷河が泣かないはずはない──と。

しばらく無言で氷河を見詰めていた瞬は、やがてゆっくりと口を開きました。
「泣かない氷河より、泣く氷河の方が好き」
「…………」

瞬がそう言ってくれるのなら、氷河も無理にクールぶって嘘をつく必要はありません。
彼は正直に瞬に告白しました。
「──泣いた」

氷河の答えを聞いた瞬が、途端ににっこりと相好を崩します。
厳しい特訓の疲れも馬鹿げた修行の空しさも吹き飛ぶような、その笑顔。
活力を取り戻した氷河は、早速、愛する恋人を抱きしめました。
そして、氷河は、瞬の肩や腕のあちこちに擦り傷があることに気付いたのです。

「どうしたんだ、この怪我は」
「あ、昨日の特訓でちょっと、ね。僕の先生、厳しいんだよ。優しいのと弱いのは違うんだって言って……。心身共に強い者が他人を思い遣るのが真の優しさで、弱くて人に何にもしてあげられないのはただの無力、聖闘士失格だって言うんだ」

瞬の説明を聞いた氷河は、瞬の上で再び溜め息を洩らしました。
「おまえのとこはいいな。マトモな訓練をしてもらえて。こっちは、パトラッシュだ、ハイジだ、クララだと、毎日毎日……。いい加減、うんざりだ」
「それも楽しそうだけど」

「俺には『泣くな、クールになれ』とか言うくせに、自分はネロの死ぬシーンを見て泣いてるんだ。俺が突っ込むと、『これは心の汗だ』とくる」
「かわい〜」
「俺の前で他の男を褒めるな」
正しくは、『俺の下で』です。

氷河は、瞬が身に着けているものを脱がせながら、ぶつぶつ文句を言いました。
「ったく、時々無性に、この町の誰も、我が師をクールだと思っている奴なんかいないってことを知らせてやりたくなるぞ。そうすれば、おまえとも、こんなふうにこそこそ隠れて会う必要がなくなるかもしれないのに」
それをしないのが、弟子である氷河の師匠への情け。
アンドロメダ家の家訓にある『優しくなければ聖闘士でいる意味がない』──です。
それは、瞬もわかっていました。
──が。

「そうだね。こんなふうにしか会えないのは不便だよね。僕の先生も、普段はとっても優しいのに、この件に関してだけは頑固だから……。今日も、6時までには帰らなきゃならないし」
「なにっ !? 」
瞬のその言葉を聞いて、氷河は大慌て。
これは、ノンキに愚痴など吐いている場合ではありません。

「あと1時間もないじゃないか! こうしてはいられん、今日の目標は4回だ!」
こんなことで目標を立てる氷河の神経(というより、無神経)にも問題ありですが、おそらく氷河は、昨日の『フランダースの犬』全52話と、人目を避けての瞬との逢瀬に、神経を磨り減らされていたのでしょう。
瞬の身体に挨拶程度のキスをすると、彼は早速、目標の4分の1を実行に移しました。

「氷河……! だ……だからって、そんな急に入れたら……ああっ……いや、そんな動かないで……いたっ……ああん……!」

なにしろ、恋する者同士、最初のうちは深刻に現状を憂いていても、××に突入してしまったら、そんなことは明後日の方に吹き飛んでしまいます。
氷河との慌しい××にすっかり慣れてしまっている瞬も、嫌がる素振りを見せるのは最初のうちだけ。
瞬はすぐに氷河の髪に指を絡ませて、切なげに喘ぎだしてしまうのでした。



* ネロの名セリフは、正しくは、『疲れたんだね? 僕もだよ』 『パトラッシュ、一緒に休もうね』 です。



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