氷河は日本人である。
日本人の美徳というものを心得ていた。
それは、すなわち、仁と礼。
嫌いな相手に対しても、それらの美徳は行使されなければならなかった。

「瞬、話がある」
故に、日本に帰国した氷河は、人として行うべき道を通すため、自らの命の恩人を城戸邸の庭に呼び出したのである。
城戸邸の庭には、氷河がカスタネダの詩を誦した時と同じ花が、まだ咲いていた。

「話って、なに?」
瞬が、不思議そうな顔をして、氷河に尋ねてくる。
せめてもっと恩着せがましくしていてくれれば、形式的な礼だけで済ませられるのにと、氷河は瞬の邪気の無さを呪った。

いずれにしても氷河は、星矢たちに見つかる前に、自分のすべきことを済ませてしまわなければならなかった。
瞬時、唇を微妙に引きつらせてから、いかにもしぶしぶといったていで、口を開く。

「聖域では手間をかけた」
「え? ううん」
「俺が不甲斐なかったばっかりに、不始末をしでかした」
それは紛れもない事実だったのだが、氷河は自分の非を認めることが、当然のことながら実に不本意だった。
これまでいつも軽蔑していた瞬が相手となれば、なおさらである。

氷河のそのあたりの心情は瞬も察しているらしく、瞬は、氷河が話題にせざるを得ないことを、なるべく軽微なことにしようとしてくれた──ようだった。
「そんな、改まってどうこう言うようなことじゃないでしょう。僕たちは仲間だもの。逆の立場だったら、氷河だって……」
「俺は、そんなことは……!」

『しない』と言いかけて、その先を言葉にしてしまうことを、氷河はためらった。
彼は、ふいに、『していたかもしれない』という、決してあり得ない考えに捕らわれたのである。
他の奴等はともかく瞬なら、瞬のためになら、自分はそうしていたかもしれない──と。
もっとも、氷河は、ものを凍らせることしか能がなかったのだけれども。

「俺は──そんなお人好しなことはしない。俺はおまえが──」
馬鹿げた考えを振り払い、氷河は自分の言うべき言葉を口にした。
そして、馬鹿げた考えを振り払うために、氷河は、言う必要のない言葉までを動員した。
「嫌いなんだからな」

言う必要のない氷河の言葉を聞かされた瞬が、驚いたように、その瞳を見開く。
その時、氷河は、今更ながらに気付いた。
自分が、その事実を、実際に瞬への言葉にしたのは、これが初めてだということに。
氷河は、その言葉を、これまでただの一度も瞬に告げたことがなかったのである。

瞬は、見開いた瞳を閉じることも逸らすこともできずにいるらしい。
瞬の瞳に映る自分自身の顔を見て、氷河は、自分が取り返しのつかない失策をしでかしたことを自覚した。

「くそっ……!」
瞬ではなく、自分自身に舌打ちをし、毒づく。

やっと自分の身体を動かすだけの力を取り戻したらしい瞬は、切なそうに微笑んで、頷いた。
「うん……」

そのまま邸内に戻ろうとする瞬の腕を、氷河の手は、彼自身の意思よりも先に反応し、動き、掴みあげ、そして、瞬を引きとめていた。
「違う……」
「氷河?」

「違う、そうじゃない! 違うんだ。わかってるだろう! 俺はおまえが好きなんだ!」
そう叫んだ氷河は、だが、今の今まで、その事実を全く知らなかったのである。

瞬は──知っていたのかもしれなかった。
「うん……」
嫌いだと言われた時に比べれば、ほとんど驚愕の色を見せずに、瞬は恥ずかしそうに頷いた。






【next】