氷河が、そのケーキ屋にパティシエ見習いとして入店が許されたのは、ケーキに対する彼の意欲や情熱が認められたからではなかった。 その店が人手不足だったせいでもない。 たまたま、氷河が弟子入りを希望して来店していた時、そのケーキ店のある地域が送電線の事故で停電になったのである。 氷河は、彼の小宇宙で、見事に店内の生菓子を救い、シェフパティシエから絶大な感謝を受け、かつ、他の従業員や来店中の客たちにやんややんやの喝采を浴びた。 要するに、氷河は、緊急時の冷蔵庫としての価値を認められ、その有名パティスリーへの入店を許されたのである。 フランス菓子研究家としても有名なその店のシェフパティシエのケーキに懸ける情熱は一通りではなく、彼は、冷蔵庫として弟子入りした氷河にも、実に厳しい修行を課した。 その修行の厳しさは、聖闘士になるための修行が児戯にも思えるほどに苛烈なものだった。 なにしろ、厨房に充満している甘いバニラとバターの香りが、“甘いものは瞬しか食したことがない”が自慢(?)の氷河にはとてつもない試練だったのである。 それでも。 その店のシェフパティシエと同じ味のケーキを作れるようになれば、瞬が一生自分に夢中でいてくれるのだ──と思えば、どんな苦難にも耐えてみせようという気にもなれるというものである。 瞬が求めた時に、瞬が求めていたものを、瞬に与えられる男は、瞬にとって非常に価値のある男となるだろう。 そもそも、瞬がケーキをこよなく愛しているという事実を氷河が不愉快に感じるのは、瞬を夢中にさせているものが、氷河自身とは全く関わりのない存在だから、だった。 氷河が作ったケーキにうっとりする瞬は、氷河にとって、彼の愛撫にうっとりする瞬と同じものだった。 瞬を喜ばせるものが自分の手に依るものであるのなら、氷河的にはノープロブレムだったのである。 それはむしろ、歓迎すべきことだった。 ゆえに氷河は、頭痛を誘うバニラの匂いに苦悶しつつ、瞬好みの(ケーキを作ることのできる)パティシエ目指して、死ぬ気で頑張ったのである。 しかしながら、ケーキ作りという作業は、根性や忍耐でどうにかなる種類のものではなかった。 体力や腕力があればいいという類のものでもない。 生クリームの泡立てに失敗し、クリームの代わりにバターを作ってしまったり、力任せに混ぜすぎて、石のように硬いスポンジを作ってしまったりと、氷河は失敗を繰り返した。 腕力や持続力の不足のせいで妙なものを作ってしまうという、ありがちな失敗は犯さないのだが、温度が高すぎても低すぎても駄目、時間が長すぎても短すぎても駄目という“適度”の追求が、氷河は不得手だったのである。 限界まで小宇宙を燃やす術を知っている氷河にも、程よい温度と適度な力で卵白を掻き混ぜるなどという神業は、容易にできるものではなかった。 その上に、である。 それでなくても甘い香りに気が狂いそうになってる氷河の周囲で、“グラサージュ”がどうの、“クレーム・パティシエール”がこうの、“ヴィエノワズリー”が云々と、鼻から抜ける鼻母音が不完全なフランス語が飛び交う。 なぜパティシエたちは──もとい、菓子職人たちは──素直に日本語で“砂糖がけ”、“カスタードクリーム”、“菓子パン”と言わないのかと、氷河はいらいらするばかりだった(“カスタードクリーム”や“パン”が日本語かどうかは、この際、別問題である)。 厨房で飛び交うフランス語は、完全に日本語化されていて、アクセントはともかく発音が本来の言葉とは全く違っている。 おフランス男であるカミュにフランス語を学び、一通りの会話をこなす氷河には、彼等の似非フランス語が耳障りでならなかった。 そんな厨房で半日も過ごすと、氷河は疲労困憊である。 頑健な肉体を頑健なままにしておくのは精神力なのだと、氷河はつくづく思った。 肉体的運動はほとんどしていないというのに、一日の修行を終えてバニラとバターの匂いのする厨房を出る頃には、氷河の身体は全てのエネルギーを吸い取られてしまったような状態になっている。 氷河のパティシエ修行の日々は、イコール、帰宅と同時にベッドに倒れ込む日々だった。 |