外見だけは大人の氷河が、クレヨンを握り、床に広げた画用紙に、ピカソの描くそれにも似た絵を描いている。
可愛いのか不気味なのか──昨日までの瞬ならば、大いにその判断に迷っていたことだろう。
だが、今の瞬には、実際に8歳だった頃の氷河の姿が、その光景に重なって見えるようになっていた。
それは、切ない光景だった。

茶色のクレヨンを手にした氷河が、画用紙の上に落とした視線を上げずに、更に切ない話題を瞬に持ちかけてくる。
「瞬……。瞬が夕べ、俺に話してくれたことは本当なのか」
「あ……うん……」
やはり氷河は忘れていなかったのだと、瞬は改めて、自分の失言を悔いることになった。

「俺は、聖闘士になって、この先何人もの人を殺すんだ」
「…………」
「聖闘士になるって、そういうことだったんだ。俺は──」
瞬の視線の先で、8歳の氷河が唇をきつく噛み締める。
瞬は、思わず、氷河を抱きしめてやりたい衝動にかられた。

「俺は、聖闘士が何をするのかも知らないで、ただ聖闘士になれればいいって思ってたけど……そんなんだったら、聖闘士になんかなりたくない」
「うん、そうだね……」

今の氷河はすべてを忘れている。
今の氷河にとって、昨夜瞬に語られたことは、遠い未来に起こるかもしれない可能性に過ぎない。
ならば。
ならば、いっそこのまま何も思い出さないことこそが氷河の幸せなのではないだろうか──と、瞬は思ったのである。

「ね、氷河。元に戻るのやめようか。このまま、聖闘士になる前の氷河でいれば、きっと氷河はもう誰も傷付けずに済むよ」
掛けていた椅子から立ち上がり、氷河が広げている画用紙の脇に膝をついて、瞬は氷河に尋ねてみた。
瞬には、それが氷河の幸福のためには最善の方法であるように思えたのである。

そうすることで、自分は、生死を共にしてきた仲間、彼との絆や信頼感、そして、彼に対して感じていた恋心のようなもの──を失うことになるかもしれない。
それでも、それらのものは、氷河が幸福になることに比べたら、さほどの価値もないものではないか──と。

氷河は、瞬が口にした考えについては、何も答えなかった。
彼は、逆に瞬に尋ねてきた。
「瞬は──瞬は、聖闘士でいても平気なのか? 瞬は、俺や星矢が転んで怪我しただけでも泣くのに」
「…………」

そんなことまで氷河は憶えてくれているのだと知った瞬の 悲しく切ない心が、更に強まる。
この大切な仲間を失うのは辛いことだったし、瞬は、聖闘士でない氷河に好意を抱くことはできても、恋し続けることのできない自分を知っていた。
それでも──。

「平気じゃないよ……」
そう告げる瞬の喉の奥が熱く痛む。
「誰かを守るためにでも、誰かを傷付けるのはとてもつらいことだよ。でも、僕は──」
「なのに、なんで聖闘士なんてやってるんだ? 瞬は、そんなのやめちまえ。そういうことは俺がやる!」

8歳の子供の目をした白鳥座の聖闘士は、瞬の言葉を遮り、手にしていたクレヨンを握り締め、瞳を潤ませかけていた瞬に、きっぱりとそう言った。






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