シュンを欲しいと言ってきたのは、国内で最も広い領地を持ち、一族の中から幾人もの皇妃を出し、また、幾人もの皇女を妃に迎えてきた公爵家の当主だった。 現皇室との繋がりは深く、その父祖を辿れば、ロシア最古の名家リューリク家に行き着くという名門中の名門である。 「ヴィルボア公爵は、今の皇帝陛下と皇太子殿下、2人の皇弟殿下と皇弟殿下の3人のご子息方が、万一亡くなるようなことでもあれば、皇位にも就けるというくらい尊いお血筋の方なの」 シュンの養母は、無感動な目をして、シュンにそう言った。 もっともそれは、悩み尽したあげくに辿り着いた虚無の心境だったに違いないが。 彼女は、決してシュンを手放したいわけではなく──事実を口にしただけだったろう。 シュンが養われている家は、貴族とは名ばかりの、誇れるほどの所領もなく、その生活は領民である農民たちと大して変わらない、地方の小貴族に過ぎなかった。 「ブラヴァツキー家の夜会で、おまえを見初めたとか」 養父が、こちらは心苦しそうに言う。 相手は、レナ川以東からベーリング海までのほぼ全ての土地を所有しているほどの有力貴族だという。 弱小貴族が逆らえる相手ではないのだ。 養父の辛そうな表情は、言葉ではあからさまに言うことのできないその事実を、雄弁に物語っていた。 シュンは、その少女のような外見はともかく、実際には正真正銘の男子だったが、少女ではなく少年を好む好事家も、富裕な貴族層にはさほど珍しい存在ではない。 首都にいる皇帝からして、気に入りの青年たちを集めた親衛隊を作っているほどなのだ。 「ブラヴァツキー様の夜会で?」 シュンがブラヴァツキー家に行ったのは、1ヶ月ほど前のことになる。 もちろん、客として招待されたのではない。 賓客を迎えての夜会に見目良い給仕が必要だというので手伝いを求められ、シュンは一日だけの臨時雇いとして、ブラヴァツキー家に赴いた。 ブラヴァツキー家はこの地方では相当の所領を持つ富裕な貴族で、たった一日分の給金で、シュンは家族3人の1ヶ月分のパン代を得ることができたのである。 シュンが1ヶ月も前の夜のことを持ち出されて驚いたのは、その夜会で出会ったひとりの貴族の青年のことを思い出したからだった。 漆黒の服に恐ろしく映える金色の髪がなかったら悪魔と見紛うような、この世に恐れるものなどないと言わんばかりに昂然とした態度の青年だった。 そして、彼は、冷たいような優しいような、不思議な青い目をしていた。 豪華な調度で飾られたブラヴァツキー家のホールを、シュンには考えられない数の蝋燭が、夜とは思えないほどに明るく照らしていた。 たとえ使用人としてでも、この場にいるのは場違いなのではないかと気後れしていたシュンは、彼にグラスを渡そうとして、中の赤い酒を零し、彼の服を濡らしてしまったのである。 ブラヴァツキー家の当主が慌てて飛んできて、ぺこぺこと謝罪を始めたところを見ると、相当身分が高いか、勢力のある貴族なのだろう。 シュンが僧服のように地味な黒い服と思っていた彼の上着は、間近で見ると、高価な黒真珠が幾つも縫い込まれた、とてつもなく豪華なものだった。 彼は、ブラヴァツキー家の主人がシュンを叱責しようとするのを、押しとどめてくれた。 「この子ではなく、俺の粗相だ。あまりに可愛らしい子なので、目が眩んだ」 その言葉を聞いた途端に、ブラヴァツキー家の主人は揉み手をして──本当に手を揉んで──貴族ではなく抜け目のない商人のように、彼に言ったのである。 「キレンスクの貧乏貴族から雇ったんです。公爵様の方でお気に召したのでしたら、私の方で仲介の労をとらせていただきますが」 「そういうことは、人任せにするつもりはない──行っていいぞ」 そう言って、彼は、自分のしでかした不始末に怯えていたシュンに、右手の指だけで下がるように命じた。 シュンは彼に礼を言うこともできなかった──。 シュンはふと、自分を貰い受けたいと言ってきたのは、あの時の青年なのではないかと考えた──期待した。 不思議なことに、それは確かに“期待”だった。 幼い時から自分を慈しんでくれた養父母、自分を育ててくれた家から引き離されようとしているというのに──である。 自身のそんな心に気付いたシュンは、そんな期待を抱いてはいけないのだと、二重の意味で自らを戒めた。 |