「──俺は未だによくわからんのだが、結局、奴の目的は何だったんだ。アテナを倒すことだったとも思えないし」
テレビカメラを向けられたくらいのことで逃げていく敵など、パトカーのサイレンを聞いて退散していったドクラテスと同レベルの情けなさである。
否、彼が神であることを鑑みると、ヘルメスはドクラテス以下と言えた。

そんな低レベルな神に、一時の気の迷いとはいえ、本気で感謝していた自分自身を深く反省──する氷河ではない。
騒動が一段落してから帰宅した城戸邸のラウンジで、彼は、馬鹿を相手に貴重な時間を費やしてしまったことだけを悔やんでいた。

「人に崇め称えられること、かしらね」
「馬鹿を褒め称えるのは馬鹿だけだろう。馬鹿にちやほやされて、何の得がある」
「虚栄心が満たされるでしょう」
「虚栄心で腹がふくれるわけじゃない」
「ええ、その通りね」
単純明快な氷河の主張に、沙織は苦笑だけを返した。

虚栄心で腹はふくれない──そんなもので、人は真の幸福に至ることはできないのだ。
小狡こずるい神と違って、彼女の聖闘士たちは人生の真理を知っている。
沙織は、それが誇らしかった。

が、そんな沙織とは対照的に、人生の真理を知る賢者の言葉に、長椅子の氷河の隣りに腰をおろしていた瞬は、少し呆れ顔になってしまったのである。
「氷河ったら、彼の目的もわからずに、あんな自信満々でご高説を垂れてたの」
「してることはそれほどでもなかったんだが、奴自身が気に食わなかったんだ」
「それだけのことで?」
「奴はおまえを侮辱した」
「それだけ?」
「それだけとは何だ! それ以上の理由があるか!」

それまでどちらかといえば心身を弛緩させてソファに身を任せていた氷河が突然、瞬を侮辱する者は瞬自身でも許さないと言わんばかりの剣幕で、眉を吊り上げる。
あろうことか、瞬は、瞬のために憤る氷河の迫力に気圧けおされて、口をつぐむ羽目に陥った。

沙織が、本当は喧嘩をしているわけではない二人を執り成すように、口をはさんでくる。
「人々を傷付けるようなことさえしないのなら、あなた方に休養を与えるいい機会でもあるし、放っておいてもいいかもしれないと考えていたのだけど、あんなさもしい考えでいるのでは、彼の正義の味方ごっこも長くは続きそうになかったし──」
そこまで言ってから、彼女はおもむろに嫌そうな顔になった。
「つまり、突然湧いて出た“人類に仇なす敵”とやらも彼の配下の者たちだったのよ」

沙織は、その確証を得るために時間を費やしていたのだそうだった。
そして、アテナの聖闘士たちは、その報告に一様に顔を歪ませることになった。

さすがは泥棒と狡知の神──というべきなのだろう。
30年前の特撮番組めいた展開からして、だいたいそんなところだろうと薄々察していたことではあったのだが、アテナの聖闘士たちは、やはりその事実に呆れ不快感を覚えた。

「そうまでして、他人の称賛がほしいものなのか」
「神の力の大小はそれで決まるようなところもあるのよ。人間も同じかしらね。彼はそういう──神の栄光には縁のない神だから」
沙織は、あの品性下劣な神に少しばかり同情しているらしい。
紫龍の嘆息に、彼女は僅かに寂寥感のにじむ笑みで答えた。
しかし、泥棒・虚言の神を尊敬しろというのは、真っ当な人間には無理無体な要望というものである。

「人に尊敬され称えられたいのなら、それにふさわしいことをすればいいだけのことだ。目的が下劣な上に手段が卑怯、どこまでも最低な男だな。ヘルペスとか言ったか」
氷河はヘルメスの目的どころか名前すら正しく把握していない。
瞬は今更訂正する気にもなれなかった。

「でも、かわいそう……。あの人だって、好きで泥棒の神様に生まれたわけじゃないのに……。欲しいものを手に入れるために、あの人なりに頑張ったんだと思うのに」
画家は絵を描き、彫刻家は石を刻み、母親は子を産み、父親は子を育てることで、人にその価値と存在意義を認めてもらうことができる。
同様に彼は、彼に与えられた能力を使って欲しいものを手に入れようとした──のだろう。
その力がたまたま泥棒や虚言の力だったというだけなのではないかと、瞬は思ったのである。

が、氷河は、そんな瞬の見解に にべもなかった。
「どう生まれたのだとしても、それは変えられるものだろう。人間ですら、それをする。奴は自分を変えようとしなかった怠け者だ」
「氷河……」

瞬には甘すぎるほどに甘い氷河の厳しい断言に、瞬は眉を曇らせた。
星矢が、そんな瞬の前で、ぴらぴらと空気を叩くような仕草で右の手を振る。
「だめだめ。氷河がおまえを侮辱した奴、許したり同情したりするわけないし、俺も未だになんか やーな感じが消えないんだよな。悪党のくせに正義の味方面して、瞬を悪く言ったりしやがってよ。瞬はいつだって一生懸命頑張ってんのに」
「全くだ。瞬、あんな下劣な輩の雑言に、おまえが傷付いたりすることはないんだからな」

「ん……うん。ありがとう」
星矢と紫龍の涙が出るほど優しい言葉に頷き返しながら、それでも瞬は、あの泥棒神の苦衷を思わずにはいられなかった。

星矢たちの不愉快な気持ちはわからないでもない。むしろ、わかりすぎるほどにわかる。
ヘルメスはおそらく、自己の中に矛盾を抱えた神なのだ。
与えられた能力と生きている世界の相容あいいれなさに苦悩する神──。

そして、それは瞬も同じだった。
人を傷付けたくない気持ちと 闘わずにはいられない現実の間で、瞬は、自分という存在が消えてしまうことこそが世界を調和させる唯一の方法なのではないかと思うほどに、迷い苦しんでいた。

──だが。






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