「氷河、まだ落ち込んでるの」 瞬が氷河の部屋に赴いたのは、ギリシャから帰国して1週間ほどが過ぎた、暖かい春の夜だった。 氷河が1週間も 瞬の部屋でない場所で夜を過ごしていること自体が、既に尋常のことではなかったのだが、氷河自身はその異常さにさえ気付いていないようだった。 ベッドに力なく腰をおろしていた氷河が、ノックもなしに――彼が気付かなかっただけかもしれなかったが――氷河の部屋に入ってきた瞬の声に、ゆっくりと顔をあげる。 瞬は、シュンが死んだことを知らされた時にもそうだったように落ち着いた表情をしていて、 氷河はそれが意外でならなかった。 「おまえがいちばん悲しむと思ったのに……」 掠れた声で、氷河は瞬にそう言った。 部屋のドアを閉じた瞬が、ゆっくりと氷河の前に歩み寄ってくる。 「どうして? あの子は僕と同じ価値観を持っていたんだよ。あの子は喜んで死んでいったに決まってる」 「……シュンが何を喜べると言うんだ。自分の命が消えてしまうことを喜ぶ“生き物”がこの世にいるか」 機械の身体――人に作られた人工の命。 そういう存在だったシュンは『喜ぶ』という感情さえ知らなかったはずだった。 シュンがそういうものだということは、氷河も理解していた。 理解してなお、むしろ理解しているからこそ、氷河はシュンの死がやるせなかったのである。 瞬は、だが、そう思ってはいないようだった。 「――氷河を守りきれなかったら、自分の無力が悲しかったろうと思うけど、氷河は無事だったんだから、あの子は嬉しかったに決まってる」 「嬉しい……だと?」 「あの子に心残りがあったとしたら、それは、氷河に二度と会えなくなることが寂しいだけで、でも、それは、氷河が無事でいることに比べたら とても些細なことだから、あの子は喜んで幸せに死んでいったの」 瞬は『壊れた』『破壊された』とは言わなかった。 氷河を慰めるため、自分自身を納得させるため、死んでいったシュンを悼むため――そのいずれとも判別しかねる表情と声で、瞬はその言葉を繰り返した。 「あの子は喜んで幸せに死んでいったんだ──」 『喜んで、幸せに――』 それは、あの健気な機械の犬に心があったらの話である。 では、瞬は、あの機械に心があったと思っているのだろうか。 だが、だとしたらなぜ、瞬は涙を流さないのか――。 そんなことを考えながら、しかし、氷河は、その答えに辿り着くための思考活動を始めることができなかった。 「 瞬が泣かないことが、氷河は腹立たしかった。 瞬が自分の死を悲しんでいないことが、氷河を不安にした。 そして、それよりも何よりも―― 「シュンが幸せだったのだとしても、俺は悲しい……」 氷河は、今は、シュンの死を悲しむ自分の心の相手をするだけで精一杯だったのである。 人の手で作られた機械にすぎないシュンが、喜びや幸福という概念を有し、そういう思いの中で死んでいったのかどうかは、氷河にはわからなかった。 だが、氷河自身の悲しみは、その存在を否定しようもなく、今ここに確かに在るものなのだ。 「悲しまないで」 氷河が座っている寝台の横に腰をおろした瞬が、まるで小さな子供をあやすように氷河の背に腕をまわす。 それは、子犬の姿をしたシュンにはできなかった“芸当”で、その事実に氷河はやりきれなさを覚えた。 瞬がなぜ泣かないのか──瞬がシュンの死を悲しんでいないはずはないのに、なぜ瞬は涙を流さないのか──。 瞬の体温を感じながら長い沈黙の時間を過ごしたあとで、氷河はその訳がぼんやりとわかったような気がしたのである。 シュンは、瞬にとって 自分と同じものを愛する自分自身であり、シュンは瞬が望んでいる通りの死を死んでいったから──だから、瞬はシュンの死を悲しんでいないのだ――と。 |