「兄さん、またどっかに行っちゃうんですか」 花の消えたその桜の下で、瞬が一輝に尋ねたのは、一輝が仲間たちの許に戻ってきてから3日目の午後のことだった。 『とりあえず3日ほど食事を1人分増やしてくれ』と一輝から要請を受けた話を沙織から聞いていた瞬は、その3日目に――要するに、兄の引き止め工作に出たのである。 瞬の意図に気付いているのかいないのか、一輝がいつも通りのつれない答えを返してくる。 「ああ。桜を見にきただけだったからな」 「散ったあとの?」 一輝が城戸邸に来た時にはもう、桜は花の姿を消していた。 一輝が桜を見るために仲間たちの許に帰ってきたのではないことは明白だったのである。 瞬の追求に、だが、一輝は動じる様子を見せなかった。 「俺はその方が好きなんでな。あのピンク色に染まった桜より、葉桜の方が風情がある」 「…………」 兄ならそういうこともあるかもしれない。 その可能性を否定しきれなかった瞬は、それ以上その件について兄を問い詰めるのはやめることにした。 瞬とて、そんな話をしたくて花の消えた桜の下に兄を誘い出したのではないのだ。 「あの……」 しばし ためらってから、思い切って口を開く。 「みんなの側にいたって、兄さんが心配するようなぬるま湯状態にはならないですよ。兄さんは状況に流されて周囲に迎合したりするタイプでもないですし、みんなと一緒にいても──」 だからもうどこにも行かないでほしいと、これまで幾度も繰り返してきた言葉をもう一度繰り返す。 瞬はこれまでと同じように、『単に気分の問題だ』という類の答えが返ってくるのを覚悟して そう言ったのだが、一輝の返事は今日はいつもと違っていた。 「ここにいると、氷河に対抗して おまえを甘やかしたくなる」 口調が非難めいている。 瞬は一瞬瞳を見開いき、それから微かに左右に首を振った。 「氷河は……氷河が僕を甘やかすのは、僕のためですよ」 「なに?」 思いがけない弟の反駁に、今度は一輝が驚く。 瞬は、ほとんど表情を変えない微笑を兄に向けて、僅かに一輝に頷いた。 「僕が氷河に甘やかされて、氷河がいないと生きていけないくらいになれば、氷河はそんな僕が心配で簡単には死ねなくなるでしょう?」 「…………」 「そして、氷河が死なないでいてくれると、僕は嬉しい。だから、氷河が僕を甘やかすのは僕のため」 瞬の見解を、一輝はそのまま認め受け入れる気にはなれなかった。 氷河に関する一輝の認識は、とにかくまず、『自分の欲しいものを子供のように強い意志で欲しがる男』だった。 瞬が言うような深慮を備えた男だとは とても思えない。 「氷河は以前は諦めがよかったから……。早くマーマのとこに行って甘えたかったのかな」 瞬は、兄の異見を見透かしているようだった。 小さな声でそう言ってから、不機嫌な顔をした兄の前で、瞬は困ったように2、3度瞬きを繰り返した。 「……だが、人に甘えるより、人に甘えられる立場にいる方が楽しいことに気付いたわけか?」 「多分、兄さんを見ていて、ね」 瞬は、微かにではあったが、今度ははっきりと、その口許に苦笑を刻んだ。 「今の氷河には被保護者が必要なんです。子供の頃の兄さんがそうだったみたいに」 その見解は、一輝にも否定することはできない。 確かにかつての一輝は、自らが生きていくために瞬を必要としていた。 そして瞬は、人が人に庇われ甘やかされるには、そうできるだけの才能が必要なのではないかと思えるほどに――見本的な被保護者だった。 瞬がそういう人間を演じていたのだとは思わないが、瞬の中に ほとんど無意識の内に兄の期待に応えようとする気持ちがあったことは否めないだろう――と、一輝は今では思っていた。 兄のために、瞬は弱者であり続けたのだ。 「そして、そんな氷河のために僕も死ねない。それが氷河の究極の目的。つまり、僕に生への執着を植えつけること」 「…………」 瞬は暗愚ではない。 むしろ、ある次元では 過ぎるほどの悟性を備えた人間だと――兄としての贔屓目を抜きにしても―― 一輝は思っていた。 その瞬が言うのである。 惚れた弱みで氷河を見る瞬の目が曇っているのだとは、一輝には考えにくかった。 「氷河に甘やかされてるの、僕は結構楽しいんです。氷河を甘やかしてるのも楽しいけど」 そう呟くように言ってから、瞬は、誤解を招かないために言葉を付け足した。 「これは依存とは違う――と思うんです。僕は一人でも立っていられる。氷河もね、ほんとはそう。ううん、氷河はきっと僕よりずっと強い。僕たちは――お互いに 生への執念を強めるために甘えたり甘えられたりしてるんです」 それでも、弟の言葉を鵜呑みにすることに、一輝は抵抗があった。 『氷河が強い』――とは、いったい氷河のどこをどう見ればそんな評価が出てくるのだろう。 一輝は瞬の主張を解しかねた。 瞬は、しかし、自分の考えに微塵の疑いも抱いていないらしい。 「なんだろ。兄さんの時とは違う。兄さんの時には、僕は甘やかされる一方だった。僕は何もわかっていない子供だったから。でも、氷河と僕は──」 「それ以上、くだらんことは言うなよ。俺はあの毛唐を、嫉妬する価値もないただの馬鹿だと思っていたいんだからな」 いずれにしても一輝は、これ以上瞬の口から“二人のこと”など聞きたくなかったのである。 一輝は瞬の話を中断させ、瞬は兄の指示に従って口をつぐんだ。 |