「――何か言え」 兄の言葉に素直に従って本当に黙り込んでしまった瞬と、瞬の作り出す長い沈黙に 幾許かの気まずさを覚え、一輝が瞬に新しい指示を出す。 兄の許しをもらった瞬は再び口を開いた。 「人は一人では生きられないが、一人で生きようとすることによって強くなれる──って、誰が言った言葉でしたっけ」 「どこぞの気取り家か引きこもり野郎だろう」 兄がその意見に同感しないことに、どうやら瞬は安心したようだった。 安堵した口調で言葉を続ける。 「でも、それは嘘。人は仲間と生きようとすることによって強くなる。人の中にいることで、多くの人に接することで、いろんなことを思い煩って、傷付いたり傷付けられたりすることで、人は強くなるんです。傷付くのを恐れて一人でいようとする人は弱い人だ」 「瞬」 まさか瞬が、頑なに孤独でいようとする兄を咎めているのだとは思わなかったが、一輝は瞬の論弁に口を挟まずにいられなかった。 瞬が慌てて左右に首を振る。 「兄さんがそうだというんじゃありません。何かあるとシベリアに行っちゃう氷河の方が未だにそういうとこがあるし――兄さんが僕たちの側にいてくれないのは、他人との接触で傷付くことを恐れているからじゃない。僕のためでしょう」 「あまり意味はないようだがな。俺がいなくなると、氷河が張り切っておまえを甘やかす。……まあ、おまえは馬鹿じゃないから、それで弱くも甘ったれにもなっていないようだが」 一輝の言葉を肯定も否定もせず、瞬がふいに視線を春の空に向ける。 水色の空には、瞬が背をもたせかけている桜の木が枝を伸ばしていて、その枝は花の代わりに鮮やかな緑で彩られていた。 瞬は兄の顔を見ず、緑を蓄えた桜の木を見やりながら 空に向かって呟いた。 「僕は最初恐かった。氷河に好きだって言われた時、氷河がとても恐かった」 「なぜだ」 問われて、瞬が、ゆっくりと視線を兄の上に戻す。 「誰かに好かれることって、すごく恐くないですか? その人の期待や幻想や夢や──そんなものを全部背負わされるみたいで」 それが肉親なら、多少の短所も認め許してくれるだろうと考えて甘えることもできる。 だからこそ瞬は、それまで兄に甘えることに躊躇を覚えたことはなかった。 だが、氷河は他人である。 だから瞬はその時、氷河の好意に戸惑いとためらいを覚えずにはいられなかったのである。 「まして氷河は、あの通り直情径行のイノシシだしな。目的物を定めると、それしか見えなくなる」 一輝のその意見には、瞬も頷くしかなかった。 それは、氷河の最大の欠点にして最大の美点だった。 「だから……僕、最初は恐くて、氷河から逃げ回ってました」 「そうだったのか?」 「そうだったんです」 過去は過ぎ去ってしまえば一瞬である。 10年前のことも1年前のことも、それは等しく“過去”であり、懐かしむべき出来事だった。 その過去を懐かしむように、瞬は目を細めた。 「でも、氷河は諦めてくれなくて、僕は自分の気持ちを氷河に伝えた。氷河を失望させるのが恐いって言った。そしたら氷河は、失望するのには慣れてるって真顔で言って――」 「失礼な奴だ」 「ほんとに」 苦笑で兄に答えてから、瞬は静かに顔を伏せた。 「そう言われて、僕は思い出した。氷河の大事な人はみんな死んでしまってたこと。氷河はきっとそのたびに失望──ううん、とてつもない絶望を味わってきたんだと思った。だから、もしかしたら僕は、生きているだけで──それだけで氷河に希望をあげられるのかもしれないって思って、そう思ったら気が楽になって、よくよく考えてみたら、僕も氷河を好きみたいだったから──」 一輝もそう言われて、思い出した。 氷河が味わってきた幾つもの絶望。 同じ絶望を味わったことがあるだけに、一輝はその絶望を乗り越えることの苦しさを知っていた。 氷河はその絶望を幾度も乗り越えてきたのだから――だから、瞬は氷河を『強い』と評するのだと、一輝は理解した。 「その時、兄さんは僕の側にいなくて、僕は一人で答えを出すしかなくて──。『氷河』は、多分、僕が初めて一人で考えて、初めて兄さんにも誰にも頼らずに出した答えなんです。だから、大切にしたい」 「…………」 転んだと言っては泣き、花が散ったと言っては泣き、一人でいるのは心細いと言っては泣き――いつもいつも瞳に涙をためて兄にすがってきた小さな弟。 その弟にそこまで言われてしまっては、一輝はもはや『やめろ』と言うことはできなかった。 『あれは我儘な ただの馬鹿だからやめておけ』――とは。 |