「子供はどうして母親を慕うんだろう」
瞬の頬には涙の跡が残っていた。
それは氷河には見慣れたものだった。

普通より敏感にできているらしい瞬の涙腺は、心に与えられる刺激にも身体に与えられる刺激にも、いつも軽々しいほど迅速にその務めを果たそうとする。
瞬の涙の種類を見極められないと、瞬とはうまく付き合えない。
それが喜びのために流されたものなのか、苦痛のために流されたものなのか、あるいは悲しみのために流されたものなのか――。
瞬の涙の意味を読み違えると、それは瞬を更に泣かせることになるのだ。

「……瞬?」
今日の瞬の涙は、そのすべてのものでできていた。
不幸なことに、氷河にはそれがわかってしまう。
「ベッドでは、いつも僕のことがいちばん好きだって言うくせに、僕にお母さんのこと侮辱させると、氷河はこんなに怒る」

瞬はいつもより乱れていた。
苦しんでいるのか歓んでいるのか、氷河でさえ判別に迷うほど――その両方がいつも以上に激しかった。
瞬がそんなふうになった原因を、氷河は瞬の内面だけの問題と思っていたのだが、事実はそうではなかった――らしい。
そうではなかったことを、氷河は瞬の言葉で自覚した。

何にも覆われていない瞬の白い肢体のあちこちに、氷河がつけた痣が残っている。
瞬の腿には、それを押さえつけていた氷河の指の跡がはっきりした形をとって残っていた。
こんな乱暴なことを、氷河はこれまで一度もしたことがなかったのである。
自分が瞬の身体の内に無理を強いていることはわかっていたから、そして、それは抑制したくてもできないことだったので、氷河は瞬の上皮にだけは、いつもガラス細工の花を扱うように優しく触れていた――そのつもりだった。

その気遣いを氷河に忘れさせたものは、瞬が指摘したとおり、瞬が 彼の母親と瞬自身を同時に侮辱したから――だった。
氷河は、瞬が持ち出した質の悪い例え話に無意識のうちに激昂していた。
だから、内側と外側から、氷河は瞬に乱暴を働いてしまったのである。

「瞬――」
しかし、瞬がそんな例え話を持ち出すことになった そもそもの原因は、瞬があの両親を亡くした子供に出会ってしまったことにある。
瞬に非はなく、故に瞬を責めることはできず、瞬を責めることができないせいで、氷河は瞬に詫びることもできなかった。

謝罪の言葉を告げる代わりに、瞬の身体を抱き寄せる。
瞬は身体の向きを僅かに斜めに傾けて、その指で氷河の頬に触れてきた。
「子供が最初に触れ合う人間だから――? 抱きしめて、頬擦りして、小さな手を握って――氷河を最初に愛した人だからなのかな……」

人は 氷河のことをマザーコンプレックスの何のとからかうが、実は瞬の方が余程 母親というものにこだわりを持っていることを、氷河は知っていた。
瞬がそんなふうになってしまったのが自分のせいだということも、氷河は知っていた。

「おまえは違うのか」
どうやって瞬の母親コンプレックスを静めてやろうかと、氷河は考えていたのである。
瞬が、氷河の呟きめいた問いに、
「僕にそれをしてくれたのは、兄さんだった」
と答えるまでは。






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