その鏡のかけらが奴の目の中に入ってしまったのは、奴の母親が亡くなった日のことだった。 それまでは、奴を取り囲む世界は素晴らしく綺麗で、奴は希望を抱いて毎日を生きていた。 ――何不自由のない生活をしていたわけじゃない。 欲しい玩具が手に入らないこともあったし、いい家に住んでいたわけでもない。 毎日 うまいものを食えていたわけでもないし、いい服を着ていたわけでもない。 それでも奴は――氷河という名前だったんだが――氷河は、今日よりは明日、明日よりはあさってが、もっと幸せな日になると信じて生きていたんだ。 氷河には母親がいて――母親しかいなくて、だが母親は奴を愛してくれていたし、奴も母親を慕っていた。 自分を愛してくれる者がいて、希望があれば、人間ってのは、どんな境遇にあっても幸せでいられるもんさ。 氷河は、まさに、そういうふうに幸せな子供だったんだ。 ――アンデルセンの『雪の女王』の話を知ってるか? 悪魔が作った魔法の鏡が割れて、そのかけらがどこぞのガキの目の中に入った――って話だ。 その悪魔の鏡ってのは、決して美しいものを映さず、醜いものをより醜く映す鏡だったんだ。 氷河の目に入った鏡のかけらも似たようなものだったんだろうな。 そんな鏡のかけらが目の中に入った人間は、どうなると思う? 鏡のかけらは、氷河から美しいものを見る力を奪った。 昨日までは氷河の目には花も空も海も美しいものとして映ってたのに、そこに母親がいなくなったってだけのことで、氷河の周囲の世界は色あせて見えるようになった。 それだけじゃない。 氷河は、母親が死んで初めて、自分の母親が正式な結婚をしていなくて、世間から冷たい目で見られていたことや、自分が私生児だったことを知った。 それまで優しい人だと思っていた人が 実はゆすりたかりの類だったことや、これまで自分に親切だった人が亡くなった母親への下心からそうしていただけだったことを知った。 唯一の保護者がなくなった孤児に関わって面倒に巻き込まれることを避けようとしたのか、周囲の者たちは急に氷河によそよそしくなった。 ――そんな大人の都合や考え方が、突然氷河の世界の中に入り込んできたんだ。 それまで氷河の母親が 氷河に見せないように知らせないようにしていた色んなものが見えるようになって、人の悪意が見えるようになって、氷河は愕然とした。 奴の世界は一変した。 おまけに、その氷河って奴はとんでもない馬鹿野郎でな。 変わってしまった自分の世界の中に身を置くうちに、奴は、自分の目が以前より よく見えるようになったんだと思い込んでしまったんだ。 人の悪意を知ることを大人になることだと思い、自分は大人になったんだと、氷河は信じ込んでしまった。 |