「泣くな」
瞬の瞳から零れ落ちた涙の滴を見て、氷河は言いました。
無理に感情を抑えたような声でした。
「泣かれると――俺はおまえを信じたくなる。だが、そうすれば、俺は必ずおまえに裏切られる」
だから信じないと、誰も信じないと、氷河は言うのでしょうか。
瞬の涙は止まりませんでした。

「おまえが余計なことを言いふらさないように、事実を教えただけだ。北の地の公爵が化け物のような姿をしているという噂は、俺には有難い噂なんでな」
そういう噂が流布されていれば、少なくとも氷河の美貌に惹かれて彼に近付いてくる者はいなくなるはず――ということなのでしょう。
誰も信じず誰も愛さないと言いながら、それでも氷河は希望を捨て切れずにいるのです。


――瞬はその時、とても不思議なことを考えたのです。
もし自分が氷河に愛と信頼を誓ったら、氷河は魔女の呪いから解放されるのだろうか、と。
氷河は、けれど、そんなことを瞬に期待してはいないようでした。
「おまえは飢えたくないから、ここにきたんだろう? 暮らしが立ち行かなくなって」

瞬が微かに頷くと、冷たい美貌の持ち主は重ねて 瞬を突き放すようなことを言いました。
「この城にある宝石でも何でも――いくらでも持っていっていいぞ。それをどう使おうが、おまえの自由だ。誰のために使おうが、自分だけのものにしようが、俺は一切関知しない。この城にあるすべての宝石を持っていかれても、それで俺が困ることはない。どうせ領地内のどこからか、その何百倍の規模の金やダイヤの鉱脈が発見されて、俺の財産はますます増えることになるだけだからな」

「…………」
それが瞬を信じまいとする氷河の 精一杯の虚勢と誠意でできた言葉だということが、瞬にはわかりました。
信じれば裏切られ失望することになるのですから、信じないことで失望せずに済むように――氷河は、自分自身と瞬のために、そんなふうにすべてを突き放すようなことを言うのです。

氷河は貪欲なわけではなく、冷酷な人間でもないのです。
誰かの役に立ちたくないわけでもなく、誰かに求められたくないわけでもない。
彼は、誰かに愛されること信じられることを望んでいる普通の、ただの孤独な人間でした。
裏切られることを怖れて、人に手を差し延べることを怖れて、それゆえに何もできずにいるだけの。

瞬は、だから、氷河に尋ねたのです。
「あの……本当に、このお城にある宝石をいくらもらってもいいの?」
「いくらでも」
瞬に問われたことに、氷河は力無い微笑で答えました。

これまでこの城にやってきた誰もが、氷河に偽りの愛と信頼を囁くことすらせずに、宝石を抱えて逃げていきました。
彼女たちは全員、彼女たちをこの城に遣わした国王の許には帰らず、自分が手に入れたものを独り占めしたようでした。
そして氷河は、彼女たちがいずれもろくな末路を辿ってはいないだろうと思っていました。

都にいる国王は、彼女たちはみな氷河に殺されたのだという噂を流しているようでしたが、彼にできることはせいぜいそんな誹謗中傷をバラまくことだけ。
氷河にはそれは脅威でも何でもありませんでした。

ただ、これまでに送り込まれてきた娘たちとは少し毛色の異なる瞬が――その瞬もまた、彼女たちと同類なのだということが、少し悲しいだけでした。






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