瞳の色を暗くした氷河を、この世界のドライな瞬は、しばらく無言で見詰めていた。
それから彼にしては穏やかな声音で、呟くように、彼は思いがけないことを言いだした。
「もしかしたら、僕は、あなたが見てる夢の登場人物にすぎないのかもしれないね。僕がいるこの世界は、あなたの想像の産物で」

突拍子もない瞬の妄想を、氷河はもちろん一笑に付した。
「まさか。確かに君は、その……俺がこうだったらと思い描いていた瞬にそっくりだが、俺の夢の通りの瞬じゃない」

氷河のその言葉を受けて、瞬は、窺うように氷河の顔を覗き込んできた。
「あなたの理想の瞬って、僕みたいに、氷河のことが大好きで、セックスも積極的で、闘いのことで思い悩んだりしなくて、いつも氷河を見てて、氷河に夢中で――」
そこまで言ってから、瞬は、自分がそういう“瞬”だということに初めて気付いたような顔をして、自嘲に似た色の笑みを その瞳の中に浮かべた。
「その上、あなたの瞬みたいに、処女みたいな恥じらいを持ってて、控えめでおとなしくて、誰かを傷付けるたびに自分が傷付く繊細さを持ってる瞬なの?」

「…………」
氷河には、瞬の言を否定できなかった。
そして、自分の求めているものが随分と我儘なものであることを自覚しないわけにもいかなかった。
「でも、夢の世界でも、あなたはそんな都合のいい僕を作れなかったわけ。少しは現実がわかってるみたいだね」
「君が俺の想像の産物だなんてことはあるはずがない」

自身の我儘を認めることにはやぶさかではないが、氷河には、瞬のその考えだけは受け入れ難かった。
こんなにも堂々と存在感のある“瞬”――が実在のものでなかったら、他のすべての存在が幻影にすぎないように思えてくるではないか。

しかし、瞬は言い募った。
「それはどうだか わからないよ。人の心の持つ力はとても大きいものだもの。世界を一つ作るくらい、きっと簡単にできる」
「瞬……」

そうなのだろうか。
瞬の言うことが事実――事実でないにしても間違いではないとしたら、それほど大きな力を持つ心というものを有した人間が――自分が――、瞬との――たった一人の相手との――望ましい関係を築けないでいることは、大きな矛盾であるような気がした。

「この世界は神様の見てる夢にすぎなくて、神様が目覚めたら消えちゃうんだっていう人もいるくらいなんだから」
「君はそれで平気なのか」

自分という存在をそれほど頼りないものだと言い、その上で明るい表情を保てる瞬が、氷河には理解できなかった。
人は、自分という存在の根拠を求め続けるものである。
求め続け、見付けられずに苛立ち、そして迷うものではないか。

だが、氷河の発した問いに対する瞬の答えは、至極あっさりしたものだった。
「僕は、自分がどういう世界の住人でも構わない。僕にとっては、僕が今生きてる場所が僕のリアルだもの。他人の夢より、自分が生きてる世界の方が大事だしね」

並列世界・多元宇宙などという、存在を証明できないものより、この異常事態が実はただ一人の人間の心の中で起きている事象にすぎないという考えの方が、確かに“現実的”ではある。
それでも、氷河は、この瞬が想像の産物に過ぎず、幻影のような存在なのだとは思いたくなかった。
――これほどはっきりした心を有しているものが、ただの影などであっていいはずがない。

だから、氷河は、彼の目の前にいる瞬の実在を肯定するために言ったのである。
「俺は、どうせ夢の世界を作るなら、もっと壮大な夢を見る」
――と。

「どんな?」
瞬が、生き生きした瞳を興味深げに輝かせ、氷河に問うてくる。
氷河は、己れの壮大な夢を瞬に語った――語ろうとした。
「俺は世界を手に入れた絶対の支配者で、誰も俺には逆らえなくて――」
「あなたの瞬も?」

氷河の意図に気付いているのかいないのか、瞬が氷河の話に口をはさんでくる。
その質問に、氷河は息を飲んだ。
「あなたは、あなたの思い通りに動く瞬が好き?」
「……いや」

自分の思い通りになる瞬が好きかと問われれば、氷河は『否』と答えないわけにはいかなかった。
瞬がそんなものになってしまったら、氷河の恋は人形に恋しているのと大差ない。
そして、人形は心を持っていないのだ。

強大な力を内包する心の持ち主である自分が、たった一人の人間との間に望み通りの関係を築くことが困難なのも道理である。
氷河がそれを望む相手は――その相手もまた、心を持っているのだから。
それでも、その困難を乗り越えて築くものにこそ、価値というものが生じるのだ。

「たとえ俺が神でも、瞬にだけは自分の意思で――」
「瞬の意思で愛して欲しい?」
「…………」
繰り返し念を押すように尋ねてくる瞬は、氷河の沈黙を肯定のそれと認めると、我が意を得たりといわんばかりの微笑を浮かべた。
その微笑が、なぜか徐々に、幻影のように力ないものに変わっていく。

「それがわかっているのなら、あなたは あなたの思い通りにならない あなたの世界に戻って。そして、僕に僕の氷河を返して。でないと僕――」
そう告げる声音までが、この瞬らしくなく頼りない。
やがて、彼は、あろうことか氷河の目の前で涙ぐみ始めた。

たとえ自分の生きる世界が誰かの作った幻影に過ぎなくても、消滅を怖れたりせずに生きていけると断言できるほど強い瞬の心が、氷河の不在ごときのせいで弱くなっている。
いったいこの瞬の心は強いのか弱いのか――と氷河は戸惑い、だが、すぐに、そのどちらでもあるのだと思い直した。
人の心は、この瞬に限らず、そんなふうにできている。

「きっと、あなたの僕が、寂しくて泣いてる。あなたの瞬が待ってるよ」
すがるように、氷河に告げる瞬の瞳は、彼の瞬の瞳に似ていた。
否、全く同じだった。

涙の膜でぼんやりと揺れる瞳。
二人の瞬のその瞳の色に、氷河は胸が詰まり、どんな世界ででも、瞬が一人でいる姿は見たくないと思った。






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