「馬鹿にしてっ! そんなことしても無駄なんだから! 僕が母にとってどういう存在だったのかなんてことは、僕がいちばんよく知ってる!」

氷河のしていることは、早晩瞬に知られてしまうことだった。
突然見知らぬ金髪の男が訪ねてきて、昔話を根掘り葉掘り聞き始めたら、誰しもその動機を知りたいと思うだろう。
そして、氷河が訪ねた 瞬の母の実家の関係者の一人が、それを瞬に直接問い合わせてしまったらしかった。

「氷河は両親に愛された子供だったから、子供は親に愛されて当然だと思ってるんでしょ! そんな思い込み、愛された経験がある者の傲慢でしかないんだからっ!」
「瞬……」

瞬がここまで感情を露わにする様を見るのは、氷河はこれが初めてだった。
従兄の画策を、瞬が自分に対する侮辱と感じるのは当然のことだとは思う。
だが、仕方がないではないか。
氷河は、どうしても そうせずにはいられなかったのだから。

「だが、おまえが欲しいのは、それなんだろう。両親に愛されていた証拠。そう思えること。俺がいくらおまえを愛しても、おまえの心は癒されない」
口にして初めて、氷河はそれを自覚した。
自分はこの不運な従弟に、あまり尋常ではない好意を抱いている。
しかも、それは、同じ種類の好意を返されたいという望みを伴うもので――あえて、その感情に名前を付すなら、つまり、それは、“恋”というものだった。

「氷河……」
瞬は、おそらくわかっているのだ。
自分が幸せでないのは自分自身のせいだということ、自分の恵まれている部分に、自分自身が目を向けていないからなのだということが。

裕福で容姿に恵まれ、知能も並み以上。
世の中には、それだけのことで幸せになれる人間が大勢いるのである。
瞬に欠けているものは、“親に愛されたという記憶”だけで、他の部分を客観的に見れば、瞬は十二分に幸運な人間だった。

が、『幸運か不運か』は客観的に判断することも可能だが、『幸福か不幸か』を決めるのは、当人の主観だけなのである。
氷河は、瞬のその主観を変えたかった。
そのための材料が欲しかったのだ。

「生きている者はおまえの心を癒せないか。たとえば俺が不幸になることで――」
瞬が、異国に育った従兄を憎んでいるというのなら、その男の不幸は瞬にとっての幸福になるはずである。
瞬が自分を幸福だと思えるようになってくれるのなら、それでもいいと氷河は思った。

「俺がどうなったら、おまえは幸福になれる? 俺が死んだらどうだ? それとも、俺が一文無しでこの家を出ていったら、少しはおまえの気が済むか?」 
氷河は本気で――皮肉でもなく、詭弁を弄する意図もなく――本心からそう思い、思ったことを瞬に告げた。

それがわかったらしく、瞬は荒げていた声を途切らせた。
そして、肩を落として、俯いていく。
「僕はずっと……氷河のことを羨み続けていた。大して変わらない歳、血のつながった実の兄弟をそれぞれの父に持っていて、それなのに氷河は僕より人に愛されることを知っていて、僕より幸せで――」

呻くように低い声で言ってから、瞬はその唇を噛みしめた。
「幸せな人を妬んでいるうちは、僕は幸せになれない。そんなこと、わかってる」
「――だが俺は、おまえを幸せにしたいんだ」
「どうやって」
自分とは異質な、愛と善をしか知らない小公子を眺めるような目を氷河に向けて、瞬は力なく微笑した。

「僕が幸せになるには、僕自身が 自分は幸せだと思わなくちゃならない。僕を幸せにできるのは僕だけで、僕を不幸にするのも僕だけで、僕以外の人は誰も僕の幸不幸に関与できない」
瞬の最大の不幸は、彼が聡明で、幸福の本質がわかってしまっていることなのかもしれなかった。
そして、それがわかっていてなお、自身の心の持ち方を変えることができないことが。

瞬の言うことは真実である。
紛う方なき真実。
しかし、氷河は、もう一つの真実を知っていた。
「そうかもしれない。だが俺は――俺は、おまえが幸せでいてくれないと、俺自身が不幸になる」
それが、愛する人を有する者の真実、人がひとりで生きているのではないことを知っている者の道理だった。

「おまえは俺を幸福にも不幸にもできる。おまえが幸福なら俺も幸福で、おまえが不幸なら俺も不幸だ」
そういう心がどんな感情から生まれてくるものなのか――それすらも瞬にはわかってもらえないのだろうか――。
「おまえはどっちを選ぶ? おまえが憎んでいる俺をどうしたい? 俺を幸福にするのも不幸にするのも、おまえの心ひとつだ。おまえは俺を、おまえがの望む通りの俺にできる。おまえは俺の生殺与奪の権を握っているようなものだ」

表情らしい表情を消し去り、出会ってまだ数ヶ月しか経っていない従兄の顔を無言で見詰めている瞬に、祈るような気持ちで、氷河は重ねて問うた。
共に幸福になるか、あるいは共に不幸になるか――
「おまえは、どっちを選ぶ」
――と。

瞬が答えを口にするまでの時間が、氷河には、ほんの一瞬に感じられた。
そして、永遠に近いほど長い時間にも思われた。
「どっちでもいい。氷河と一緒にいられるのなら」

瞬がどういう考えを経て、その答えに至ったのかはわからない。
「僕はずっとずっと氷河を羨んで――氷河になりたいと憧れ続けていたんだから」
ただ、瞬が、二人で生きることを受け入れてくれたという事実が、氷河を幸福にした。






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