一日の始めに、瞬が持ってくるバナナの皮で転ぶのが、星矢の日課になっていた。
用が済んだあとのバナナの皮を、瞬が律儀に裏庭に設置されているコンポーザーに持っていく。

「……瞬は、どうしてあんなに素直で可愛いんだろう」
その後ろ姿をぼーっと見詰めながら、氷河は誰にともなく呟いた。
『誰にともなく』と言っても、聞いているのは星矢しかいなかったが。

「一応言っておくが、瞬はああ見えても男だぞ」
「無問題だ。俺は女には懲りている」
女の恨みで数千年間の壺生活を余儀なくされた男の言葉には 実感がこもっている。
星矢は納得して両の肩をすくめた。
「まあ、人の嗜好に文句はつけねーけど……瞬が相手じゃ仕方ねーか」
「――おまえ、わりと理解のある奴なんだな」

何の見返りも求めずに毎日律儀に尻餅をついてくれる星矢に、氷河は、瞬に対するものとは種類の違う好意を抱き始めていた。
抱いている好意の種類が異なるから、瞬に言えないことも言えるのが有難い。

「しかし、このまま壺生活が続くのでは、俺は瞬と寝ることもできない」
「おまえ、あの瞬に、ンなことするつもりなのかよ!」
明確に非難とわかる罵倒を受けて、氷河はむしろ、好きな相手にそれを望まない方が不健康なのではないかと思ったのだが、彼は星矢にそういう反論はしなかった。
それどころではない大問題が、氷河の目の前には悠久の大河のように泰然と横たわっていたのだ。

「だから、したくてもできないと言っただろーが!」
「え?」
氷河の怒声を聞いた星矢が、急に気の毒そうな顔になって、氷河にお伺いを立ててくる。
「――おまえ、もしかして デキなくなってるのか? それもアテナの呪いってやつ?」
「阿呆! この俺が、何があったって不能になんかなるわけがないだろう!」
「なーんだ、同情して損した」

確かにその同情は無意味なものだった。
氷河の苦悩は、もう少し次元の違うところにあったのである。
「そういう意味ではなく――責任もとれないのに、あの瞬にそんな振舞いに及ぶわけにはいかないだろうと言っているんだ」
実を言うと、他人に対してそんな配慮を抱くこと自体が、氷河にはこれが初めての経験だった。

他人の立場や気持ちなど、氷河はこれまでほとんど考えたことがなかったのである。
自分がそれを望み、相手が、本心はどうあれ、それを受け入れるのなら、そこに問題は発生しない。
もし何らかの問題が発生しても、それは、過剰な期待を抱いた相手の身勝手に過ぎないと、氷河は思っていた。
どんな罰を受けようと、氷河はこれまではそう思い続けることができていたのだ。
自分に非はない、と。

だが、もし自分の身に望まないことが降りかかってきたとしても、瞬は決して自分を傷付けた相手を責めたりはしないだろう。
そう信じてしまえることが、氷河から従前の傲慢を奪い去ってしまっていた。
そして、そう信じてしまえることが、『好きだ』というたった一言を瞬に告げることを、氷河にさせずにいたのである。






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