青銅の壺の横にバナナの皮を置く。
バナナの皮にすべって転ぶなどという行為は非常に恥ずかしく勇気のいる仕事だったが、瞬はその恥ずかしさも、氷河への思いのために乗り越えた。

「えいっ!」
かけ声をかけて、その物体の上に不自然な角度で足を乗せ、その場にすってんと尻餅をつく。
「ご主人様、何なりとご用をお申しつけ――瞬、大丈夫かっ!」

例の白煙と共に壺から出てきた氷河は、いつもの決まり文句を口にしかけ――壺の脇で転んでいるのが星矢ではなく他ならぬ瞬だということに気付き、慌てて瞬の前に片膝をついた。
差し延べられた手をとる代わりに、瞬は、その場で正座の形に座り直して、氷河の瞳を正面から見詰め、言ったのである。
「氷河、僕のお願い きいてくれる?」
「……俺にできることなら、どんなことでも」
そう答える以外の答えを、もちろん氷河は持っていなかった。

氷河の返答を聞いた瞬が、一瞬間ためらってから、彼の唯一つの願いを口にする。
「普通の人間に戻ってください」
瞬にとって、それは、自分が持っている勇気のすべてを掻き集めて作った、まさに命懸けの願いだった。

「そして、僕とずっと一緒にいてください。僕と一緒にいるのは、壺の中にいるのに比べたらすごく大変なことだと思う。僕は何の力も持ってないちっぽけな人間だし、今のままでいたら、氷河はいつまでも若くて綺麗なままでいられるんだってこともわかってる。でも、僕は、氷河に僕と一緒に、普通の人間が経験するようなつらいことや楽しいことをして、同じ速さで年をとって、そして、いつか同じように死んでほしい」
「瞬……」

「魔法は使えなくても、人間にできることならできるんでしょう? 僕のお願い通りにできるんでしょう? だったら、お願い。普通の人間になってください」
「俺は――」

こんな素晴らしい命令がこの世に存在したのかと、決死の思いで見開かれている瞬の瞳を見詰めながら、氷河は思った。
それが不可能な夢でも、氷河は瞬の願いを叶えてやりたかった。
だから。

「何ごともご命令のままに」
だから氷河はそう言って、瞬をその胸に抱きしめたのである。
瞬を抱きしめながら、氷河は、自分を瞬に出会わせてくれた女神アテナに心から感謝していた。






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