瞬は、氷河の翼が失われた時のことを、今でもはっきりと憶えている。
忘れたくても忘れられなかった。
2年前のあの日、氷河は、あの白い翼をいつものように大きく翻して 花畑の中にいた瞬の前に舞いおりてきた。
瞬はいつものように氷河に『おはよう』と言い、昨日までと同じ一日を彼と過ごすつもりだった。
だが瞬の前に降り立った氷河は ひどく思い詰めた目をしていて――少し前から氷河は、瞬と一緒にいてもふいに黙り込むことが増えていた――突然 瞬を抱きしめ、その唇に唇を重ねてきたのである。
氷河の唇はとても苦い味がした。

それがどういう意味を持つ行為なのか、瞬にはわからなかったのである。
瞬は甘い蜜をたたえた花や果実にしか、唇で触れたことがなかった。
だから瞬はその時、氷河はいったいどんな新しい遊びを思いついたのかと訝ることしかできなかった。
だが氷河は、瞬がどれほど待っても、その“遊び”のルールを瞬に説明してはくれなかった。

そうしているうちに瞬は、自分の周囲でおびただしい数の白い花びらが舞っていることに気付いたのである。
よく見るとそれは花びらなどではなく――氷河の翼から離れた純白の羽根の乱舞だった。
氷河の翼が、瞬の目の前で渦を巻くように散っていたのだ。

瞬は驚き、白い羽根の渦巻きの中で氷河の名を呼び、何が起こっているのかと、ほとんど悲鳴のように彼に尋ねた。
氷河が何ごとかを瞬に告げる。
だが、その時にはもう、氷河が口にする言葉は瞬には理解できないものになっていた。

翼を持つ者と持たない者は使う言葉も違う。
氷河の言葉は瞬には理解できず、氷河もまた、瞬の口にする言葉がわからなくなってしまっているようだった。
大きな驚愕と長い混乱のあとで、瞬は、氷河が別の世界の住人になってしまったことを理解した――。

なぜこんなことが起きるのか。
だが、紛うことなき この現実。
瞬は翼を項垂れさせ、悲嘆に暮れて氷河を見詰めることしかできなかったのである。
氷河は――瞬よりももっと悲しげな眼差しを瞬に向けていた。

そして氷河は、瞬と言葉を交すことを諦め、翼を持たない者たちの住む河向こうの世界に行ってしまったのだった。
翼を持たない者は、こちらの世界では生きていられないから。






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