三足目のサンダルが瞬の足を包んでいられなくなった時、瞬の目の前に、漆黒の翼を持った楽園の番人が現われた。
彼は瞬を見るなり、大きな溜め息をついた。
「見事な翼だな。これが消えてしまうのは惜しい」
半ば呻くようにそう呟いた彼は、橋を架けるのは考え直さないかと瞬に言ってきたのである。

瞬の翼はその頃には、翼を捨てる直前の氷河の翼と同じほどに大きく白くなっていた。
使わない方が力強さを増し、白さを増す翼。
その翼を宙にいっぱいに広げて、瞬は漆黒の翼を持つ番人に答えた。
「僕は氷河に会うために、ここまで歩いてきたの」

瞬の翼が何のためにここまで大きく美しくなったのかを、漆黒の翼の番人は承知しているようだった。
彼は瞬に重ねて何かを言うことはせず、瞬の足許から向こう岸に向かって橋を架けてくれた。
広げた瞬の翼と同じだけの幅を持つ、ゆるやかな虹の形をした薄緑色の水晶の橋。
瞬は、その橋を駆けあがった。

「氷河……!」
瞬が橋の中央に至った時、そこには既に氷河の姿があって、瞬は彼の胸の中に飛び込んでいった。
懐かしい氷河と抱きしめ合い交すキスはどんな果実よりも甘く、これほど甘いものを以前はどうして苦いと感じたのかと、瞬は奇異に思いさえしたのである。

「氷河、僕は氷河と一緒にいたい。氷河と一緒にいるためになら翼も捨てる」
自由と安寧を約束する翼より価値のあるもの。
それがどういうもので、どこにあるのかが、瞬にはもうわかっていた。

氷河が、瞬を抱きしめる腕の力は緩めずに、だが、ためらいを消しきれていない声音で瞬の耳許に囁く。
「翼を持たない者の世界では、神から与えられるものは少ない。おまえはつらい目に合うかもしれない。俺は、俺が翼を捨てた時からずっと、おまえに俺の許に来てほしいと願っていたが、だが……」

氷河が口にする言葉がわかる。
自分が氷河と同じ言葉を使える事実に、瞬は歓喜した。
それと同時に、瞬には、氷河の背から翼が失われた訳もわかったのである。
氷河は彼自身の手で瞬を幸福にしたいと願ってしまった。
“今”とは違う未来を望んだ時、その願いが彼から翼を奪ってしまったのだ。

「欲しいものは自分の手で作り育てなければならない。神や世界が与えるものより素晴らしいものを手に入れられる可能性もないではないが、だが、翼を持つ者たちの世界とは違って、どんなに頑張っても必要なものすら手に入らないこともある。それでも――」
氷河は、幸福にしようと思った相手を逆に不幸にしてしまう可能性に迷わされているらしい。
希望には不安がついてまわるものだから。

だが、瞬の心は決まっていた。
瞬が欲しいものは、氷河のいる世界にしか存在しないのだ。
「僕は、氷河と一緒にいたいんだ」
きっぱりと言い切って、瞬は氷河にしがみついた。
途端に、もはやその背にたたむことも不可能なほど大きくなっていた瞬の翼が飛び散って、その翼を形作っていた無数の白い羽根が川面を覆い尽くした。

望むものも、生きるために必要なものすら誰からも与えられず、自分で手に入れる努力をしなければならない世界。
不安が全くないと言えば それは嘘だったが、不安以上に大きな希望を抱いて、瞬は橋を渡り、氷河と共に河の向こうの世界に足を踏み入れた。

対岸からは荒野にしか見えなかったその世界。
だが、その世界にもささやかながら緑はあり、小さな花も咲いていた。
その場所で二人は抱きしめ合い、キスをし、そして、小さな花の横で交尾をした。
これまで味わったことのない甘さが、瞬の身体の中に生じる。
氷河をその身に受け入れる歓喜に喘ぎながら、瞬は、自分がもう翼を持つ者たちの世界には戻れないことを知った。


生まれた時から過ごしてきた世界を失うことと、新しい世界を手に入れること。
寂しいのか嬉しいのか、瞬自身にも判別できない思いが、瞬の瞳から涙を零させる。
それは、瞬が生まれて初めて流す涙でもあった。
その滴を唇で受けとめた氷河に、瞬は尋ねてみたのである。
「どんな味がするの」
それがどういう時にあふれてくるものなのかということさえ、瞬はまだ知らなかった。

「少し甘い。今にもっと甘くなる」
そう告げる氷河の中には、瞬をこちら側の世界に連れてきてしまったことへの後悔が皆無というわけではないようだったが、それでも自分を見詰める氷河の瞳が輝いていることが瞬は嬉しかった。






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