世界は確かに狂っていた。
が、それでも地球は回っている。
二人の聖闘士の声の入れ替わりは、周囲に大いなる違和感を振りまくことになったが、だからといって それで世界が動かなくなるわけでもなく、人類の生活に支障が出るわけでもない。
生命の維持という視点に立てば、氷河と瞬自身にも、それはいささかの不都合をもたらすものでもなかった。

しかし、人間が生きるという行為は、肉体の生命を保つことだけで成り立っているものではない。
人は、ものを見聞きし、感じ、考えることをしながら、生活というものを成り立たせているのだ。
それは、神という人種(?)もあまり変わらないようだった。
翌日、ちょうど聖域から日本に戻ってきた沙織に、氷河と瞬は事態収拾のための助力を願い出たのだが、彼女はこの異常事態に、実に人間らしい反応を示してくれたのである。

「きゃーっ、やだ、いったい、これって何事なのっ!」
それは(一応)神である沙織にも、想像を絶した出来事だったのだろう。
彼女は氷河と瞬の声を聞くなり、女神としての威厳を保つことも忘れ、すっかりどこにでもいる女子高生ふうの喚声をあげてくれたのである。
それすらも――女子高生ふうの沙織すらも――“自然”の範疇に分類されるほど、氷河と瞬の声は不自然を極めていた。

「沙織さん、お願いです。僕たちをアテナの力で元に戻してください」(←氷河の声)
「俺が瞬の声なのはともかく、瞬の顔と俺の声の組み合わせは耐え難い。見るのも聞くのも悲惨にすぎる」(←瞬の声)
「何言ってるの! 氷河が僕の声で話す方が変だよ!」(←氷河の声)
「おまえこそ何を言っている。おまえ、一度鏡の中の自分に向かって話しかけてみろ。悶絶して死ぬぞ、絶対」(←瞬の声)
「氷河こそ、その女の子みたいな声をどうにかしてよ!」(←氷河の声)

二人のやりとりは至極深刻なものであるはずなのに、傍から見ている分には漫才としか思えない。
爆笑したいのだが、そうすることもはばかられ、沙織は表情のみならず全身を引きつらせて、彼女の聖闘士たちに神聖なる神の託宣を下したのだった。
「原因がわからないのでは、私にだって対処の方法はわからないわ。しばらく様子を見ましょう。声が入れ替わったくらいで生活に支障が出ることもないでしょうし」

「そんなっ。支障がないなんて、そんなことありませんっ。支障だらけです!」(←氷河の声)
「あら、どんな?」
「そ……それは……」(←氷河の声)
瞬はその“支障”を沙織に告げることはできなかった。
言えるはずがないではないか。
夕べ、いつもの通りにコトに及ぼうとして、本来なら楽しいだけのはずのその行為の遂行を、侘びしく断念せざるを得なくなった経緯など。


――昨夜二人は、いつもの通り連れ立って瞬の部屋に入った。
平生であれば、互いに待ちかねたように着衣のままベッドにもつれ込むところだったのだが、この夜ばかりは、微かな声を洩らすことも恐れるように重苦しい沈黙を守って、二人はそれぞれに服を脱いだ。
それから、ベッドに入り、身体を重ね、いざコトに及ぼうとして互いの顔に出会った途端。
「あ……」(←氷河の声)
「む……」(←瞬の声)
氷河と瞬は、二人が二人とも、思い切り萎えてしまったのである。
こんなことは、二人の間にこの関係が成立して以来 初めてのことだった。
だが、氷河は自分の声で喘ぐ瞬の姿など見たくなかったし、瞬は、いつも氷河が囁くような言葉を自分の声で聞く勇気が持てなかったのである。

「こ……声が元に戻るまでやめようか、これ……」(←氷河の声)
「それが賢明だな」(←瞬の声)
意見の一致を見た二人は、黙って目を閉じ、せめてもと指だけを絡めて、ひどく物寂しい思いを胸に就寝したのである。

それでなくても秋の夜は長い。
二人で、同じベッドで、抱き合うこともせずに眠る夜は更に長い。
そして、切ない。
詩情あふれる秋の夜の憂愁を、しかし、瞬は沙織に訴えることはできなかった。






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