氷河は、彼に課せられた仕事を中断して、瞬を城戸邸に連れ帰った。
車中では何も言わず、帰宅してからも、彼は怒りのために口がきけないでいる様子だった。
瞬には彼がいったい何に憤っているのかがわからず、だが、怒れる氷河にその理由を尋ねることもまた 瞬にはできなかった。
瞬に事情がわかってきたのは、翌日の午後になってからのことだった。

「フレミング監督から、瞬に対して正式に映画出演のオファーがきたわ。脚本の初稿も夕べ直接手渡されて、先ほど目を通しました。内容は、大人向けのファンタジーといったところかしら。正式な邦題はまだ決まっていないけど、暫定のタイトルは『メリュジーヌ物語』。おそらく変更になると思うけど、このタイトルでいくなら、瞬はタイトルロールということになるわね。メリュジーヌ役」

「え……?」
あの興奮気味のオスカー監督は、つまり、瞬に映画出演を要請してきたのである。
瞬はあっけにとられた。
そんな話が、氷河に出てくるならともかく、この事態はありえない。

「フランスの『メリュジーヌ物語』をモチーフにした話で、監督は、その息子の一人ジョフロワにスポットを当てた作品にするつもりのようね。主だった出演者は既に決まっていて、一部撮影に入っているわ。ただタイトルロールのメリュジーヌの役者だけがまだ決まっていなくて、監督は彼のイメージに合う役者を鵜の目鷹の目で探していたみたい」

「メリュジーヌ物語って……」
氷河は昨夜からの仏頂面を崩さないまま、今は沙織を睨んでいる。
瞬は氷河の様子をちらちらと盗み見るように伺いながら、恐る恐る沙織に尋ねた。
フランス人のカミュの指導を受けた氷河には既知のものなのかもしれないが、瞬にはそれは初めて聞く物語の名だったのだ。

「よくある妖精譚よ。フランス中世の実際の歴史と重なってるところが特殊なんだけど。妖精のメリュジーヌが人間の男と恋に落ちて、結ばれて、あらゆる成功と栄華と富と10人の子供を彼に与える。でも、夫はタブーを犯してしまって、メリュジーヌは妖精の国に帰らなければならなくなった。残された子供たちは、それぞれ勇敢な騎士になって、様々な冒険に挑んでいくんだけど、その中の一人がマザコンなの。“牙のジョフロワ”と呼ばれる とても勇敢な騎士で、失われた若く美しい母を慕い続けて――どこかで聞いたような話ね」
そう言ってから、沙織は、憤懣やるかたなしといったていの氷河の上にさらりと視線を投げた。

「主役は、そのマザコンの息子でね、監督があなたに演じてほしいと望んでいるのは、彼の面影に残る母親メリュジーヌの役。出番はあまりないわ。セリフのない回想シーンが数回と、あとは、闘いで命を落としたジョフロアを幻影の中で迎えるラストシーン。これはセリフはあるんだけど、監督はその部分は日本語に書き換えさせると言っていたわ。どちらにしても、監督はあなたに演技力は求めていないみたい。とにかく彼は、あなたのその目と表情が気に入ったらしくて――」

「10人の子持ち女の役を瞬にさせるつもりか!」
瞬にそれ以上の何かを――たとえば、映画出演を勧めるようなことを――沙織に言わせまいとするかのように、氷河の怒声が彼女の言葉を遮る。

「メリュジーヌは歳をとらず、永遠に若く美しい妖精よ」
なだめるように沙織はそう言ったのだが、彼女は、それで氷河の怒りが収まることを期待してはいないようだった。



■ クードレッド作 『 メリュジーヌ物語



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