ある秋の日の朝、突然、 「俺の恋人の振りをしてほしい」 氷河にそう言って頭を下げられ、瞬はきょとんと目を丸くした。 何を言われたのか理解不能、氷河がそんなことを言い出した訳もわからない。 「恋人の振りって、どうして?」 戸惑いながら問い返した瞬に、氷河から実にショッキングな答えが返ってくる。 「あー、つまり俺が振られそうなんだ」 言いにくそうに 暫時 口ごもってから、しかし、あまり深刻そうな色は見せずに――むしろ、照れたような苦笑を浮かべた軽い口調で――氷河は、そう言った。 が、言われた瞬の方は、氷河のように気楽に構えてはいられなかったのである。 「振られそう……って、氷河を振るような人がいるの……ううん、氷河、付き合ってる人がいたの」 これまで氷河は、瞬にも他の仲間たちにも、そんな気配を全く見せていなかった。 それは、瞬には、まさに寝耳に水の椿事だったのである。 「実は いたんだな、これが」 「だ……誰」 問い返す瞬の声が震える。 そして、瞬はすぐに、そんなことを氷河に問うた自分自身を憎み呪いかけた。 氷河の付き合っている相手が誰なのかを聞いて どうなるのか――どうにもならない。 ただ自分の愚昧を思い知るだけのことである。 そんなことがあるはずがないと、瞬はたった今まで根拠もなく信じ込んでいたのである。 氷河が“誰か”――瞬自身も含めて――に恋をしたりすることがあるはずがない、と。 瞬の内心の混乱と後悔に気付いた様子もなく、氷河は瞬に問われたことに答えを返してよこした。 「星の子学園の――」 「あ……絵梨衣さん?」 「当たり」 氷河にその名を告げられる前に、瞬は彼女の名を口にしていた。 それほどに――瞬にすら すぐにその名を思いつくほどに――それは“ありえること”だったのだ。 だというのになぜ、自分はそれを“ありえないこと”と信じていられたのか。 瞬は、そんな自分自身が不思議でならなかったのである。 瞬の脳裡に浮かぶ絵梨衣は、可愛らしく とても優しそうな面立ちの少女だった。 星の子学園で子供たちの世話をしている彼女に、氷河は母親の面影を重ねているのかもしれない。 瞬には、二人は似合いの二人に思えた。 「彼女が……氷河を振るの? そんなふうには……優しそうな人だったし」 『優しいから振らない』というのもおかしな話だが、それが瞬の率直な感想だった。 彼女なら、氷河の少々エキセントリックなところも大らかに認め受けとめてくれそうな気がする。 そう思わざるを得ないことは、瞬をひどく切ない気分にさせた。 氷河が、そんな瞬に大袈裟に両の肩をすくめてみせる。 「優しそうだったのは昔の話だ。一度エリスに取り憑かれてからは、気は強くなるわ、プライドは異様に高くなるわで、俺は絵梨衣には振り回されっぱなしだ。が、まあ、惚れた弱みで、俺は絵梨衣に逆らえない。ところが彼女は、どうもそんな俺に愛想を尽かしたらしくてな」 そう言ってから氷河は、『こんなことなら、もっと強く出ていればよかった』と愚痴るように呟いた。 「あの絵梨衣さんが……? まさか」 「女ってのは、わからんもんだぞー」 「でも好きなんだ」 「そういうことだ」 少々自虐的にも見える様子で笑い、氷河が頷く。 あまりの痛みに、瞬の胸はつぶれてしまいそうだった。 |