客間の応接セットに腰を落ち着けたカノンは、テーブルを挟んで その向かいの席に座る瞬を見下ろし、いかにも場つなぎのための会話――を切り出した。
「聖闘士のくせに、闘うことに疲れたなどとふざけたことを言っていた甘ちゃんが、ハーデスだったそうだな」
正確には、自分は冥界の王の依り代にすぎず、ハーデスだったわけではない――と訂正を入れるのも言い訳じみているような気がして、瞬は彼の前に素直に頭を垂れた。
「ご迷惑をおかけしました……」
「あの時、おまえを助けずにいれば、面倒が一つ減っていたのに、俺も愚かなことをしたものだ」
「…………」
瞬には返す言葉もなかった。
カノンの言うことは正鵠を射ている。

あまり行儀がよいとは言えないが、瞬が座った肘掛け椅子のアームに腰をおろしていた氷河は、カノンの前で瞬が項垂れる様を横目に見て、こめかみを引きつらせたのである。
助けずにいれば面倒が一つ減っていたとは、地上の平和と安寧を守るために その命を捨てようとさえした人間に対して、何という言い草だろう。

もちろん氷河も、カノンが瞬に為したことは瞬から聞いていた。
冥界の第一プリズン・裁きの館で、これまで多くの敵を傷付け倒してきたことを冥闘士スペクターの一人に責められた瞬は――敵にとどめを刺せない甘さを責められたことはあっても、敵を倒したことを 自分以外の人間に責められたことのなかった瞬は――自らの罪の重さに耐えかねて、闘いを放棄しようとした。
スペクターに幻朧拳を放つことで瞬を救ったカノンは、彼に礼を言おうとした瞬に、その甘さを断じたのだという。
『戦場の真っ只中で、闘いに疲れたなどと甘ったれたことを考えて、目の前の敵を傷付けることを恐れてどうする。その敵を倒さなければ、もっと多くの罪のない人々が傷付くことになるのだぞ』
――と。


「その通りだよね」
と、白い部屋で、瞬は氷河に言った。
「彼のおかげで、こうして僕は生きて氷河の側にいられる」
そう、瞬は不思議な表情で言った。
微笑むでもなく、悲しむでもなく、自嘲するでもなく、反発するようにでもなく。
その時に、氷河は瞬の変化に気付いたのである。

冥界での闘いのあと、瞬は変わった。
もともと超俗なところはあったが、瞬は冥界からの帰還後、ますます“人間”というものから かけ離れていくような、そんな変化を呈していた。
空気が澄んでいくように、水が濾過ろかされていくように、肌も身にまとう雰囲気も、日々透き通っていく――のだ。

だが、存在感が失せるわけではない。
姿の輪郭はぼやけていくのに、存在感は増していく。
つまり、冥界での闘いのあとの瞬から失われつつあるのは、存在感ではなく現実感だった。
氷河には、そう感じられていた。

だから氷河は不安だったのである。
瞬は本当に、人間の手の届かない――それこそ神のようなものになってしまうのではないかと。
抱きしめて、その温もりを自分の腕の中に閉じ込めている時にも、その身体を組み敷き、最も人間らしい行為をしている時にも、その不安は消えてくれなかった。
目を閉じて唇で触れる肌の感触と、氷河を受けとめ絡みつく肉の顫動せんどうが、瞬が今はまだ人間として生きていることだけは、氷河に知らせてくれたが。

いずれにしても、一度はポセイドンを操って地上の支配を目論んだ かつてのアテナへの反逆者のおかけで、瞬は今はかろうじて氷河の腕の中にいる。
瞬に説教を垂れる男の存在が快いわけではなかったが、それがなければ瞬は死んでいた――かもしれないのだ。
その上、氷河自身は、『人を傷付けたくない』という瞬の願いより、『たとえ罪でも邪悪を倒すべきだ』というカノンの考えの方に同調できるからなおさら、その心境は複雑だった。


瞬は、カノンの前で瞼を伏せている。
氷河は、瞬の存在を確かめるように、そして瞬を力づけるように、その肩の上に手を置いた。
瞬が、氷河の顔を見あげて、静かに瞳だけで微笑む。
それから瞬は、もう一度カノンの方に向き直った。
「今日は沙織さん――アテナにご用ですか?」
「聖域の今後について話し合う必要があるのでな」
全く愛想のない顔で、カノンが頷きもせずに答える。

彼はちらりと、瞬の肩の上にある氷河の手に視線を投げると、
「仲間の友情のと、そんな甘っちょろいことばかり言っているから、おまえのような情けない聖闘士ができあがるわけだ」
そう、嘆かわしげに呟いた。
氷河は、この偽者の黄金聖闘士の言い草に目一杯ムカつくことになったのである。






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