それでも氷河は無言でいた。 彼が 仮でも偽でも黄金聖闘士だから――ではなく、ひとえに彼が瞬の命を救ってくれた男だという、ただその一事に免じて。 氷河のそんな忍耐と思い遣り(?)に、だが、カノンは全く気付いていないようだった。 「おまえの口癖は、『人を傷付けるのは嫌い』だそうだな」 「……そうせずにいられるのなら、それがいちばんだと思っています。敵とは言っても、その敵は命を持っているんですから――」 「あれほどの――それこそ地獄を見てきたというのに、相変わらずなわけだ」 氷河とて、こんな男と和気藹々で仲間ごっこをしたいわけではない。 しかし、彼の言葉には いちいち棘があり、それがひどく氷河の気に障った。 「敵の存在とその命を否定しない? 他人を否定しないのは、そうすることで自分も尊重されたいからだ。誰も傷付けたくないと思うのは、自分が誰にも傷付けられたくないからだろう。おまえは、誰も人を傷付けることなしに、何事かを成し遂げられると、本当に思っているのか。本気でそう思っているのなら、おまえはただの馬鹿だ」 彼がその言葉を言い終わった瞬間、氷河は彼の横面を殴ってしまっていた。 彼がその暴挙を、拳を用いず 右手の甲で行なったのは、ただただ彼が瞬の命を救った男だったから。 他に理由はない。 「腹の立つことに、瞬は自分が傷付くのは平気な――耐えられる人間なんだ。貴様が瞬の命を救ったという冥界の第一プリズンでも、それが自分の命だから、瞬は諦めようとしただけのこと。だが、失われるのが自分以外の誰かの命だったなら、瞬は決して諦めたりはしなかった!」 そのことに関して、氷河には絶対の自信があった。 そして、そんな瞬にいつも焦れったさを感じていた。 自分自身のために、自分の命に関して、瞬にはもっと貪欲になってほしいと、氷河はいつも思っていたのだ。 「事実、瞬は、あの時までずっと――」 「だが、こいつは、それまでずっと――」 氷河の声とカノンの声が重なる。 カノンが何を言おうとしているのか――彼が、自分と同じことを言おうとしていることを察して、氷河は彼の機先を制した。 「瞬は、あの時までずっと、それでも闘ってきた!」 一呼吸遅れて、 「こいつは、それまでずっと人を傷付け続けてきたのだろう」 カノンの言葉が室内に響く。 氷河と全く同じ事実を言っているのに、カノンの言葉は、氷河のそれとは全く違うことを主張していた。 結局は保身のために、自分が傷付かないために、アンドロメダ座の聖闘士はそうしてきたのだ――と。 確かに瞬は、その言葉とは裏腹に、胸中の願いとは裏腹に、敵を傷付け倒してきた。 そうせざるを得ないことで瞬自身がどれほど傷付いてきたのかを、氷河は知っている。 その瞬にとって、地上に住む人々のために自らの命を捨てる決意をすることは、敵と呼ばれる者たちを傷付けることに比べれば、実にたやすいことだったに違いない。 瞬の言葉と行動の矛盾を保身のためととる人間が、氷河は大嫌いだった。 瞬をそんな低いレベルにまで引きずり落として判断するなと、心底から思う。 「それでも人を傷付けなければならない瞬の気持ちが、貴様にはわかるか!」 わかるわけがない。 瞬以外の誰にも、その気持ちがわかるはずはなかった。 氷河自身にもわかっていなかった。 氷河はいつでも、瞬に傷付かずにいてほしいと願っていた。 だが瞬は、闘うことで その身体を傷付け、勝利することで その心を傷付ける。 そして、瞬をそうさせているのは瞬自身の意思ではなく、瞬の周囲に存在する人間なのだ。 瞬はいつも誰かを守るために闘い、そうすることで自分自身を傷付けてきた。 なぜ そんな瞬を、なぜ自分は救ってやることができないのかと、氷河はいつも己れの無力に歯噛みをしていたのだ。 「氷河、もうやめて」 掛けていた椅子から立ち上がって、瞬が氷河の腕を引く。 瞬のその所作を見て、カノンは蔑むような口調で瞬に言った。 「そんなふうに善人面をして、仲間に守られて――本当は、自分だけは人を傷付けず、人に傷付けられずにいたいと思っているのだろう、おまえは」 「そうですね。僕はいつも仲間に守られてばかりいる」 瞬は彼に反駁することはなく、半ば顔を伏せるようにして頷いた。 「しおらしい振りをするな!」 「僕はしおらしくなんかないんです。あの時、あなたにこの命を救ってもらったことは感謝していますし、あなたの考え方をとても合理的だと思う。現実的だとも思う。でも、あなたに何を言われても、僕は自分の考えを捨てないから。僕はとても頑固なんです」 少女めいた――というより子供じみた面立ちと やわらかい口調で――少なくとも、傍目には全く頑固に見えない様子で――瞬は双子座の黄金聖闘士に告げた。 カノンが、その言葉を聞いた途端に、自らの表情を元の無表情に戻す。 否、彼は最初から表情を変えてなどいなかった。 「甘ちゃんのガキの相手などしていられない」 言葉にだけは皮肉の色を乗せていたが、彼の瞳はそうではなかった。 「これからも、この平和な時が続くなら、そういう甘ったれた考えでも生き延びていけるだろうな。そうであることを祈っていろ」 「はい」 瞬が頷いた時、沙織が室内に入ってきて、氷河と瞬は席を外すことになった。 「なんなんだ、あの男は!」 廊下に出るなり毒づき始めた氷河に、瞬が 僅かに苦笑が勝った笑みを向ける。 「ほんと。よければよかったのに……」 仮でも偽でも黄金聖闘士の横面を殴った氷河の手を取って、瞬は小さく呟いた。 |