それは、どうやらアベルを倒したあとの記憶のようだった。
瞬は、金色の髪の男とベッドにいる。
歓を極め尽くしたあとの他愛のないやりとり――の記憶。
だが、その内容は睦言にしては あまり楽しげなものではない。

「僕たちは神を倒してしまったけど……あれでよかったんだろうか」
瞬を散々 喘がせ泣き叫ばせた直後だというのに、氷河はまだ物足りないのか、その手を瞬の脚の内側にのばしている。
だが、それは、自分が味わい尽くしたものの感触を確かめるための行為らしく、瞬をあおるような動きは見せていなかった。
その男が、瞬のうなじに唇を這わせながら、あまり抑揚のない声で短く告げる。
「あの神は倒していい神だ」

「人と人の世を滅ぼそうとしたものだから?」
人間の敵であるものなら倒してもいいという考えは、人間を善と見なしているからこそ出てくる意見である。
もちろん瞬はそうだと――人は基本的に善いものだと――信じていたが、氷河もまたそういう考えの持ち主だとは、瞬は思ってはいなかった。
人はどうしようもなく愚かな生き物だが、救いがないほど愚かではない――人の愚かさにも限度はある――。
氷河はその程度の認識でいるのだろうと、瞬は思っていたのである。
実際、その通りだったらしい。
氷河は、人間の持つ善意などには言及しなかった。

「あれは倒してもいいものだったと 俺が思うのは、あれが俺たちに――人間に必要のない神だからだ」
「人間に必要な神と必要でない神がいるの」
「無論」
「氷河に必要な神って何? どんな神様なの」
氷河がアテナに従っているのは『彼女が神だから』ではないことを、瞬は知っていた。
氷河は、神というよりは人間としての城戸沙織が掲げる理念と理想に賛同して、アテナの聖闘士という立場に立っている。
沙織が神でなくても、彼は沙織に従うだろう。
その点に関しては、瞬も氷河と同じだった。

その氷河が、アベルは人間に必要のない神だと 言う。
しかし瞬は、人間には神のような存在が必要なのではないかという考えも持っていた。
そういう存在がないと 人はどこまでも傲慢になるのではないか、と。
人は、動植物の世界を支配し、当然のことながら 人の世界を支配している。
行く手に立ちはだかるものが現れなければ、いつか神の領域にまで その力を及ぼそうとするに違いない。
それが、自らが生きて死ぬことに必要のない力の拡大と知っていても、“神”の抵抗さえなければ。
そうすることが正しいことなのかどうかが、瞬にはわからなかった。

氷河が、瞬の剥き出しの肩を愛撫しながら薄く笑う。
「俺に限らず、人間が求めているのは、本当は神なんかじゃないんだ。人間が求めているのは自分自身だ。いわゆる“おのれ”というやつだな。人は、自分が何ものなのかを求めている。それがわからないから人間は不安になり、神のような絶対の何かを求め、自らの生の拠りどころにしようとする。だが、人が本当に求めているのは おのれ自身。それが何なのか、自分が何のために生まれ生きているのかがわかれば、人間には本当は神なんか必要じゃないんだ」

「でも、現実に、人は神を求めるよ」
「人が求める神は、永劫の光、真実を映す鏡のようなものだ。そういう神に出会って、その光の中で真実を映す鏡に映る自分の姿を見て、自分が何ものなのかを知り、理解し、安心したいわけだ。そうして、己れが何ものなのかがわかれば、生きることの意味もわかり、自信を持って生きていけるようになるだろう? 人が求めるのは、そういう神――自分を生かしてくれる神だ。人を滅ぼす神じゃない」

「氷河はそういう神様に出会ったことがあるの」
氷河の口調があまりに確信に満ちているので、瞬は尋ねずにはいられなかった。
氷河からは、やはり ためらいのない答えが返ってくる。
「ある」
「どこで?」

氷河は実は、瞬にその質問を発せさせるために、長い演説をしていたものらしい。
事が自分の思い通りに運んだことに満悦のていで、嬉しそうに、彼は瞬の瞳を見詰めてきた。
「その瞳に、俺の真実の姿が映る。その瞳に出会った時、俺は自分が何のために生まれてきたのかを知ったんだ」
「……」

氷河が何を言おうとしているのかがわからないわけではなかったのだが――わかっているからこそ――訊き返すのも怖くて、瞬は、代わりに、
「氷河は何のために生まれてきたの」
と、彼に尋ねた。
訊けるわけがないではないか。
『氷河の神様は僕なの?』――などという不遜なことは。

が、瞬が何を言おうが言うまいが、それはすべて氷河の想定内のことだったらしい――瞬は既に氷河の術中に落ち、彼の思い描いた筋書きの通りに動くものにさせられてしまっていたようだった。
氷河は唇の端を僅かに歪め、意味ありげな笑みを作った。
「おまえを愛するためだな」

この一言を言うための筋書き。
自分が氷河の企んだ通りに踊らされていることに気付いて、瞬は口をとがらせた。
「もう、ふざけてないで」
「ふざけてなどいない」
氷河が、彼の神の身体を抱きしめようとする。
これほどあからさまな、言葉と行動の矛盾があるだろうか。

「ふざけてるよ」
もう一度そう言って、瞬は身体を横向きにし、氷河にそっぽを向いてみせようとしたのだが、それは氷河の腕によって阻まれた。
肩をシーツの上に押しつけられ、唇が唇に重なり、そして、氷河の手は、瞬に固く目を閉じさせるほどに深い愛撫を始める。
瞬は、その手に逆らえなかった。

言葉の遊びにしても、それは軽々しく言っていいことではない――と、瞬は思った。
自分の神が人間であるなどということは。
もし氷河が本気でそう思っているだとしたら、彼は彼の神の心身を完全に支配していることになる――“支配”という言葉が適切でないのなら、“知り尽くし、望むように動かす”ことができる、ということになる。
瞬には、やはり氷河はふざけているのだとしか考えられなかった。

氷河にとって神とは、理屈や経験ではなく直感で存在を知るものらしく――彼はそれ以上 彼の神について言及することはしなかった。
彼の唇は彼の神を食らうことに夢中で、言葉を吐き出す余裕はもうないらしい。
やがて、氷河が瞬の中に入り込んでくる。
身体をのけぞらせ、噛み殺しきれない声を洩らし――乱れていく思考の中で瞬は、神にこんなことをする人間がいるものかと思った。
氷河が語るように、神が光であり、真実を映す鏡であるのなら――心と身体のすべてを氷河にさらけだしている自分の神は氷河なのかと。 

「ああ……っ!」
だとしたら、神は優しいものであるに違いない。
どれほど厳しい罰を受けさせられようとも、どれほど激しい痛みを与えられようとも、神は優しいものであるに違いない。
神は最後には人を許してくれる。
神は、愛だけでできているのだ。

氷河の愛撫によって与えられる歓喜と、身体を二つに引き裂かれるような痛み――氷河との交合によってもたらされるすべての感覚に身悶えながら、瞬は薄れゆく最後の思考でそう思った。






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