異国での春分の夜。
それは、ヒョウガには眠れぬ夜だった。
いっそセイヤが言っていたように、夜陰に乗じてシュンの部屋に忍び込んでやろうかと考えなかったわけではない。
彼がその衝動を抑えることができたのは、この夜をシュンが生きている最後の夜には決してしないことを、その決意を、自身に促すためだった。

やがて、客観的には長くもなく短くもない夜が明ける。
ついに訪れたその日の朝、ヒョウガたちが神殿に向かうと、祭壇のある広間には、あの生気のない長老たちに取り囲まれているシュンの姿があった。
主観的には長すぎ 短すぎる夜を、シュンはどんな気持ちで過ごしたのか――。
ヒョウガの姿を認めたシュンは、これまでヒョウガが見たうちでいちばん美しく優しい笑顔を、ヒョウガに向けてきた。

「この国をヒョウガの国に委ねることにしました。僕と同じように、誰かに守られることしか知らない国ですから、もしかしたらヒョウガには ご迷惑をかけることになるかもしれませんが、ヒョウガの手で、この国を、ヒョウガのように生きて輝く国に生まれ変わらせてください」
「……」
ヒョウガがそう・・したいのは、この国などではなくシュン自身だった。
否、そうすると、彼は決めていた。
無言で、ヒョウガはその決意をシュンに告げたつもりだったのだが、シュンはおそらくヒョウガの言葉に気付かなかったのだろう――あるいは、聞こえぬ振りをした。

やがて、自らが守られるために守り続けてきた最後の王子を祭壇の前に残し、白い長老たちが神殿を出ていく。
彼等に従う振りをして神殿の出口に向かったヒョウガたちは、そこで神殿の外に出ることはせず、素早く大理石の柱の陰に身を翻した。
神殿の広間の中央にシュンの姿だけがあることを確かめて、神殿の白い石の扉が閉じられる。
外部との行き来ができなくなった神殿の柱の陰で息を潜め、ヒョウガたちは、名もわからぬ神の降臨を待つことになったのである。

この国で、シュンの前に王家の一員が神に奉じられたのは、もう100年以上前のことらしい。
王宮の図書室でシリュウが探しあてた古い記録によると、次に神殿の扉が開けられるのは春分の日の正午。
その時には既に神殿内から生け贄の姿は消えているのだという。
そこにヒョウガたちが身を潜ませていることも知らず、シュンは、神殿の扉が閉じられると、自ら我が身を祭壇の上に横たえ、そして胸の上で手を組んだ。
白い短衣からのびたシュンの手足は白く細く、その様子を見たヒョウガは、シュンを欲する神は――もし、それが本当に神なのだとして――絶対に好色で下等な神に違いないと決めつけたのである。
そう思いながらもヒョウガは、それが剣で片をつけられる神を語る化け物の類であることを、心底から願ったのだった。


異変が起きたのは、神殿の扉が閉められて まもなくのことだった。
ヒョウガが見守っていたシュンの姿が、妙にぼやけて見え始める。
奇妙に思いつつ目を凝らしたヒョウガは、自分とシュンの間に、いつのまにかぼんやりとした影のようなものが 立ちふさがっていることに気付いた。
人間が、こんなふうに閉じられた空間にふいに出現できるはずがない。
それが人間でないことは、すぐにわかった。
ヒョウガの視線の先で、黒い煙のようだった影が徐々に明確な輪郭を取り始める。
それはやがて若い男の姿になった。

巨人でもなければ、異形のものでもない。
長い黒髪と、不思議な光沢をたたえた黒い長衣。
その男が、シュンの顔を覗き込むように、シュンの上に身をかがめる。
彼の横顔は遠目に見ても実に端正なもので、その事実がヒョウガの神経を逆撫でした。

「この ど助平神! シュンから離れろ! シュンは渡さないぞ!」
セイヤとシリュウに、彼を止める時間があったろうか。
シュンの隣りに寄り添った時、自分以上に絵になる男などいないというヒョウガの自負は、つまり、誰にもシュンに触れることを許したくないという彼の願望にすぎなかった。
だから、ヒョウガは、それ以上その男にシュンに近付いてほしくなかったのである。
脱兎の勢いで祭壇に駆け寄ると、ヒョウガは黒衣の男の背に向けて、手にしていた剣を一閃させた。

「あの馬鹿!」
「愚かな……」
ヒョウガの仲間とシュンを欲する神が、ヒョウガに対して、ほとんど同時に全く同じ評価をくだす。
ヒョウガがとった行動は、まさにその評価通りのものだった。






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