こうなっては、セイヤもシリュウも相手の出方を窺うような悠長なことはしていられない。 彼等は――彼等もまた、ヒョウガに数歩遅れて、身を潜めていた柱の陰から飛び出した。 神に奉じられる者以外の人間がいてはならぬ場に、人間がいる。 しかも、その手に剣を携えて。 祭壇に横たわるシュンを背にしてヒョウガたちに向き直った黒い神は、ゆっくりと その端正な貌を不愉快そうに歪めた。 「余の国にやってくる人間たちを見て おおよその察しはついていたが、近頃人間たちは更にその傲慢さを増しているようだな。余の意思を妨げようとは」 おそらく彼は、人の作った武器では傷付けることのできない存在なのだろう。 ヒョウガが切りつけたはずの彼の身体は――彼がその身にまとっているものでさえ――彼がこの場に現れた時と何も変わってはいない。 黒い幻影は、多分に余裕から生まれた穏やかさを伴った眼差しで、神に逆らう者たちを見おろし、そして言った。 「余を、人間たちの浅知恵のために力を失いつつある山の神や川の神と一緒にするな。余は、人間のみならず、神の死をも支配する神、人間はことごとく余のしもべ、不滅と言われている神とても その例外ではない。余は死の国の王、冥界の黒い太陽神――」 「ハーデスか!」 その神の名を呼んだのは、ヒョウガではなくシリュウだった。 それは、大神ゼウスの兄、どのような神も人間も 最後には彼に屈することになる冥府の主の名前だった。 強大な神であるにも関わらず、オリュンポス12神にも属さない孤高の神。 彼は、人間が逆らう相手としては最高最悪に分の悪い神だった。 シュンの国の守護神の正体を知ったシリュウはその頬を蒼白にしたが、セイヤとヒョウガは冥府の王の名を聞いても、眉ひとつ動かさなかった。 死の国の王などというものは彼等には縁のない存在で、彼等はその神の力のほどを噂にも聞いたことがなかったのだ。 知らないものを怖れることはできない。 黒い神は――彼もまた、人間を怖れてはいなかった。 その力を知らないからではなく、そもそも彼は人間の力など認めてもいなかったのだ。 「この誓約の証がある限り、シュンは永遠に余のもの。余が望み、運命の神が認めたことは、ゼウスにも変えられない」 勝ち誇ったように、彼はシュンの胸にあるものの上に手をかざした。 祭壇の上で、シュンは身体を動かすことができないらしい。 死の手がその心臓に触れようとしているというのに、シュンは、近付いてくる神の手を、言葉もなく、ただ見詰めているばかりだった。 ハーデスの手が、シュンの胸に触れる。 死がシュンを捕まえてしまう前に、シュンの上に降りかかってくるものを払いのけなければならない。 ヒョウガは再度、ハーデスの肩に向かって長剣を振りおろした。 「う……」 神殿の内に、低い男の呻き声が響く。 ハーデスの呻きは、だが、ヒョウガの剣によってその身を傷付けられたために発せられたのではなかった。 実際、彼は、その身体のどこにも傷を負ってはいなかった。 だというのに、冥府の王は、シュンの上から 不吉な死の手を我が身の方へと引き戻したのである。 それから彼は初めて、感情を伴った声をヒョウガたちに向けて投げつけてきた。 「そなたたち、それに何をした!」 「何って別に……」 セイヤが間の抜けた呟きを洩らす。 「ヒョウガ、おまえ、何かしたのか?」 セイヤに問われたことを、実はヒョウガはシリュウに尋ねようとしていた。 ヒョウガの視線の先で、シリュウが首を横に振る。 3人の人間がそんなやりとりをしているうちに、冥界の王の姿は、再び黒い影のようにぼやけ始めていた。 「これだから人間というものは……!」 その声すらも、呻吟に近いものになる。 ヒョウガたちが あっけにとられているその目の前で、ハーデスと神殿内に充満していた冷たい死の気配は徐々に薄れていった。 「二度と神の力を頼れると思うなよ。この国に、もはや神の手は差しのべられない。そなたたちは、どのような苦難も災厄も、己れの手だけで払いのけなければならなくなるのだ」 忌々しげな呪いの言葉を残して――それは、ヒョウガたちには、呪いというより、ごく自然な生き方の示唆にすぎなかったが――冥府の王は、彼等の前から完全にその姿を消し去ってしまったのである。 |