「俺たち、何もしてねーのに」
あまりに唐突な神の退場に、セイヤがぽかんと気の抜けた顔になる。
ヒョウガもシリュウも、その心境はセイヤと大差なかった。

身体の自由を取り戻したらしいシュンが、祭壇の上で上体を起こす。
その場で最もこの事態に戸惑っているのは、他の誰でもないシュン自身だったろう。
16年間 彼を縛っていたものが、神との誓約が、一瞬のうちに、まさしく煙のように消え去ってしまったのだから。

「それに何かしたのか」
ついさきほどまで神がいた空間に呆然と視線を投げているシュンの胸許に、ヒョウガは手をのばした。
「駄目っ、見ないでっ!」
途端に我にかえったシュンが、ヒョウガの手が触れたものを取り戻そうとして大きく身をよじる。
その弾みで繊細な細工の鎖があっけなく切れ、シュンが取り戻そうとしたものはヒョウガの手に残された。

「何も変わったところは――」
それは、初めて見た時と何も変わっていないように見えた。
表面にはあの不愉快な言葉――『永遠にあなたのもの』が記されている。
そして裏面には――。
そこには、ひどく控えめな小さな文字でヒョウガの名前が刻まれていた。
その文字に気付いて、ヒョウガは息を呑んだのである。

「あれが消えたのは、もしかして このせいか?」
「の、ようだな」
ヒョウガの手の中にあるものを覗き込んだセイヤとシリュウは、そこに刻まれている文字を読んで、目をみはると同時に両の肩をすくめた。

「シュン……」
ヒョウガに名を呼ばれたシュンが、絶望したような目をして、大きく左右に首を振る。
シュンを絶望の淵に追い込んだものは、羞恥という実に可愛らしい力だった。
「ぼ……僕はこれまで、自分のために生きたことがなかったから――せめて、最期の日だけは、誰かのためじゃない、自分の心を抱いて消えたいと思ったの」
夕べ眠れずに、ひとりでその名を刻んで過ごしたのだと、朱の色に染めた頬を俯かせて、シュンはヒョウガに告白した。
その様を思い浮かべただけで、ヒョウガは切なさに胸が詰まったのである。
生きていれば、毎日新しい出会いがあり、思いがけない出来事が起こる。
だが、これほど大きな感動には滅多に出合えるものではない。
自分はこれまで生きていてよかったと、ヒョウガは至極真面目に思ったのである。

感動に打ち震えているヒョウガの横で、セイヤとシリュウは、あまりにあっさりと引き下がった神の潔さ(?)よりも、ヒョウガのあの稚拙な告白で彼の気持ちがシュンに通じていたという事実に 驚嘆しまくっていた。
「でも、こんなことで、国の大旱魃を救う力を持つほどの神が引き下がるのか?」
「契約書の名前は大事だからな。悪意のない文書偽造というところか」

言葉もなく見詰め合っているヒョウガとシュンを横目に見やり、
「こんな阿呆のどこがいいんだ」
と、セイヤが呟く。
思いがけない恋の成就に全身を緊張させているヒョウガも、実は彼に同感だった。
「そりゃあ、阿呆なところだろう」
シリュウの放言も、今のヒョウガには祝福の言葉にしか聞こえない。
阿呆でよかったと、ヒョウガは思った。






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