だが、氷河は、瞬が決してアテナの聖闘士であることをやめないだろうことも、その理由も――実に不本意ながら、知りすぎるほどに知っていたのだ。
あまり言葉にはしたくはなさそうに――実際、彼にしては歯切れが悪く――氷河はその理由を口にした。
「おまえは――おまえには、俺に対するよりもずっと熱烈に恋しているものがある。その恋を、おまえが諦めるとは思えない」
「僕には そんな人いないよ」
「人じゃない」
「?」

瞬には、氷河の言う言葉の意味が全くわからなかったのである。
昨日氷河が言っていたように、瞬にとっても、恋というものは恐ろしく勇気の要る命がけの行為だった。
自分が傷付くことを覚悟して、相手を傷付けることも覚悟して、自分自身のすべてを自分以外の誰かにさらけだすようなことを、同時に複数の対象物にしてのけるほど瞬は器用ではなかったし、また、そんな精神的余裕の持ち合わせもなかった。
瞬にそれをさせたのは氷河だけだったし、氷河以外の誰かにそれをしようと考えたこともない。
しかし、氷河は、瞬のもうひとつの恋に関して絶対の確信を抱いているらしく、彼の口調には澱みがなかった。

「まあ、おまえが恋しているものを一言で言うなら、“平和”だな。そして、平和が生み出す幸福。俺が永遠に敵わない恋敵だ」
「え……」
氷河が挙げた自分のもう一人の恋の相手の名に、瞬は息を呑んだのである。
自分が傷付くことを覚悟して、相手を傷付けることも覚悟して、自分自身のすべてを自分以外の誰かにさらけだす行為。
それが恋だというのなら、確かに瞬は命がけの恋をもうひとつ していた。

「なにしろ、俺自身が同じものに恋焦がれているからな。その強烈な魅力がわかりすぎるほどにわかる」
「氷河……」
瞬が恋し、氷河が恋焦がれているもの――平和。
平和であったなら失わずに済んだものが、確かに氷河には多すぎた。
氷河がその目許に微苦笑を刻む様を――おそらく彼は相当の無理をして微笑んでいる――見せられて、瞬は、胸が詰まるように息苦しい感覚に襲われたのである。
これほど悲しい、これほど切ない、こんなにも命を賭けた恋が他にあるだろうか。

「そうだね……。僕たちは、命がけで平和に恋しているのかもしれない……」
瞬は、呟くようにそう言い、ゆっくりとその瞼を伏せた。
一度は退けられた氷河の手が、今度は瞬の首筋に触れることを許される。
氷河はそのまま自分の体重をかけて、瞬の身体をシーツの上に横たえた。
瞬の腕が、氷河の背にまわされる。

「星矢にそう言ってあげたらいいじゃない。そしたら、星矢だってあんなに怒ったりは……」
「言ったさ。そうしたら、あの馬鹿は、『平和なんて、そんなものにも勝てないなんて情けねーなー』と、俺を鼻で笑いやがったんだ」
「……」
用いられた語句のすべて、声の調子まで憶えてるところを見ると、氷河は星矢にそう言われたことが相当悔しかったらしい。
それで瞬は、遅ればせながらに気付いたのである。
氷河が突然仲間たちの前で“いちゃいちゃ”を実践し始めた訳を。

「まさか氷河、それを根にもって、星矢をからかってるの」
「奴自身は、自分がそう言ったことをすっかり忘れているんだから、腹が立つ」
「氷河……」
氷河は、瞬の言を否定はしなかった。
では、やはり、氷河が仲間たちの前で、見せつけるように“恋人”に絡むようになったのは、“平和”という恋敵に自分が勝利していることを星矢に示すため――だったらしい。

氷河の意地の張りように、瞬はすっかりあきれてしまったのである――彼の身体の下で。
「もう、子供みたい」
「俺はいたいけな子供だぞ。身体だけは大人だが」
そう言いながら、氷河が、彼のオトナの部分を瞬の腰に押しつけてくる。
その感触に、瞬はぱっと頬を赤らめた。
「やだ、なんでもうこんななの……」
「平和なんかより俺の方が男前なのにと思うと、焼きもちでこういうことになる。鎮めてくれ」
「あ……」

『嫌だと言っても、そうするくせに』という瞬の反駁は、氷河の舌に絡め取られてしまった。
代わりに瞬の唇から出てきたものは、氷河を受け入れることを了承した甘い吐息である。
「明日……平和を守る闘いのためにも命を賭けてるって言って、星矢と仲直りしてくれるのなら」
固く目を閉じ、腕と足とを氷河のそれに絡めながら、瞬はそれでも最後の力を振り絞って、彼の要求を受け入れるための条件を口にした。

「約束する」
氷河は、返答を渋って、その時を先延ばしにするつもりはなかったのだろう。
瞬の言う条件を即座に呑んで、彼は器用に素早く 瞬が身に着けていたものを剥ぎ取った。
自分が傷付くことを覚悟して、相手を傷付けることも覚悟して、自分自身のすべてを自分以外の誰かにさらけだす行為を“恋”というのなら、確かにこれもそうだった。






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