「昔、人間を作った神は、他の動物と人間を分けるために、人間に特別な力を与えようとした――知ってるか?」 この大陸に伝わる神話を氷河が語ったのは、自ら望んだわけでもないのに英明になってしまった不幸な王子を慰めようとしてのことだった。 瞬が、その神話の結末を口にする。 「神は、永遠の命の木と知恵の木のどちらかの実を人間に与えると言い、人間は知恵の実を選んだ」 それは、人類の始祖が己れの意思で選び取ったものであり、神からの授かりものである。 多く養って不幸ということはない。 氷河はそう言いたかったのだが――氷河の意図を、瞬は解していたに違いないのに――不幸な王子は力無く左右に首を振った。 「皮肉だね。その時、人間に知恵があったなら、彼はきっと永遠の命の木の実の方を選んだだろうに」 「人の命には終わりがあるからいいんだ。永遠に生きられたとしても、人は必ずしも幸福になれるとは限らないしな」 「なら、神様はなぜ、幸福の木の実を人間に与えようとしなかったんだろう」 「幸福とは、人が自らの手で育て実らせ収穫するものでなければ、価値のないものだからだろう」 氷河の言葉を、瞬はひどく意外な思いで聞くことになった。 「あなたは、西戎の者たちとは違う……みたい。あなたに野心はないの? 華胥の国の王になりたくて、あなたはこの城にやってきたんでしょう? 今では名ばかりの国だけど、かつては大陸の中心に咲く華と称えられていた国を支配することは、人によっては 大いに虚栄心を満たす行為らしいし」 「言い訳にとられるかもしれないが、俺は仕方なく この国に攻めてきたんだ。数年前から、この国の土地を失った農民が難民になって、俺の国に流れてきている。俺の国の産業はもともと牧畜と狩りが主で、自給自足を旨としている。倍になった人口を養えるほどのゆとりはない。できれば、彼等に故郷にお引き取り願いたい。そのために――」 そこに野心はなかった。 氷河の“言い訳”を瞬が言葉通りに受け取ってくれたのかどうかは、氷河にはわからなかった。 ただ瞬は、それは建前にすぎないと決めつけるようなことはしなかった。 「あなたのために予言してあげる。あの侵略者たちが民に課していた税を3分の1に減らして、未納分を帳消しにし、税の代わりに取り上げた土地を民に返してやるといい。無理をして税を払った者たちが、その措置を不公平に感じないように、何らかの見返りを与えることも忘れないで。それで、華胥の難民は2年以内に、あなたの国からこの国に戻ってくるよ」 「簡単なものだな」 「その簡単なことが、自分の利益をしか考えない者にはできないんだ」 「……」 悲しげにそう呟く瞬の大きな瞳には、やはりまだあどけなさが残っている。 聡明と無力感の同居。 その不釣合いが、氷河の心を捉える。 瞬の瞳に見入っている自分自身に気付いていなかった氷河は、瞬の、 「何を考えているの。僕をどうやって処刑するか?」 という言葉で、はっと我にかえった。 氷河はそんなことは考えてもいなかった。 が、瞬は、それを当然の処置と考えているらしい。 「この国の民の反発を抑えることを考えるなら、僕は病死したということにすればいい。新しい支配者にこの国を託して死んでいったと――」 「……」 氷河は、瞬の提案に頷きもしなければ、退けることもしなかった。 氷河は今は、そんなことには全く興味がなかったのだ。 氷河に不利益なことを言ったつもりのなかった瞬は、彼の無反応を訝った。 そして、彼に尋ねる。 「何を考えているの」 「おまえと幸福になる方法」 氷河から返ってきた思いがけない答えに、瞬はぎょっとしたのである。 同時に、この大事な時に華胥の新王は何を考えているのかと、瞬は心の底から呆れかえった。 が、氷河は至って真剣らしい。 「おまえを汚さず、予言者として立てておくのがいちばん利口なやり方だということはわかっているんだが、おまえを欲する思いが止められない」 「あ……あなたは馬鹿? 僕を葬り去れば、幸福だった時代の王家の末裔という求心力を失った民は、新しい求心力を求めて――あなたを中心に動き出すようになる。善政を布けば、民意を得ることは簡単なことだよ。あなたがこの国を良い方に導いてくれるのなら、僕は大人しく死んであげる」 瞬にしてみれば、それは予言ではなく――氷河のため、華胥の国のための、瞬に考え得る最善の“提案”だった。 氷河は、だが、頷かない。 氷河に無言で見詰められていることが、なぜかひどく恐ろしいことに思えて、瞬はその視線を脇に逸らした。 思い当たる“原因”がないのに、心臓が高鳴る。 いったい自分の内で何が起きているのかと、瞬は慌て、戸惑った。 困惑を表情に出さないようにするために、瞬は自らが持てる力のほとんどを用いなければならなかった。 そんな瞬を見詰めていた氷河が、静かに口を開く。 「原因があるから結果があると言ったな」 「そ……それがどうか?」 「おまえは、確かに優れた予言者ではないようだな。自分の美しさと聡明と悲愴という原因が、俺の心に何を生んでしまうのかも見透かせないのでは」 氷河は、彼の恋の結末を早々に見切ってしまったのだろうか。 それ以上は何も言わず、彼は瞬の前から姿を消した。 ひとり 部屋に残された瞬は、極度の緊張から解き放たれた脱力感のために、床にへたり込んでしまったのである。 「だって僕は、ただの人間だもの……」 誰もいなくなった王宮の一室で、希望から目を逸らすように顔を伏せ、瞬は小さく呟いた。 |