あと数年で19世紀は終わる。 シュンの家は、その激動の19世紀の半分を使って、名もない一工員の身からロンドンで知らない者はないほどの大商会を経営するまでになった新興ジェントリー、いわゆる“成り上がり”だった。 時流に乗った羊毛紡績の海外貿易で巨万の富を得、昨年、ジェントリー階級の中では最高位の 紡績の事業を起こした祖父から受け継いだ工場を更に大きく発展させた父、海外貿易商としての手腕を発揮することで事業を拡大した兄。 莫大な財を成したシュンの兄は、その財を事業拡大のために再投資すると同時に、彼の家を上流階級の一員とするために惜しげもなく費やした。 ロンドン郊外に大邸宅を構え、無数の使用人を雇い入れ、ロイヤル・オペラハウスに桟敷を買い取り、救護院の建造のために5万ポンドの大金をぽんと寄付したこともある。 また、彼は、弟のシュンに貴族より貴族らしい教育を施すために 金と手間を惜しまなかった。 両親を早くに亡くし、兄に育ててもらったようなシュンは、この兄に全く頭があがらない。 彼の苦労も野心も、何より愛情を知っているだけに、兄への反抗など思いもよらないことだったのだ。 だが――。 「貴族の称号を持つ家の令嬢を掴まえるんだ。貴族でありさえすれば、貧乏でも構わん。いや、むしろ、その方が都合がいい。なに、おまえにその目で見詰められたら、どれほど気位の高い令嬢もすぐにのぼせあがるだろう。おまえの瞳はサンタ・ルチアよりも美しいからな」 サンタ・ルチアは信仰のために自らの財産を貧しい人々に分け与えた“女性”である。 兄のそんな無謀なたとえにも、シュンは文句も言えない。 しかし、それが敬愛する兄の言葉だけに――人の心というものを無視しきったような彼の命令に、シュンは先程から鬱々としていたのだ。 無駄な支出をする以外の才を持たない貴族たちに“成り上がり”と蔑まれ続けてきた兄の上昇志向は、その気持ちは、わからないでもない。 否、わかりすぎるほどにわかる。 だから、シュンは、兄の言葉がつらく、兄の言葉に逆らえないのだ。 これから、シュンは兄と共に某男爵家主催の舞踏会に行くことになっていた。 黒のディナージャケットと白手袋。作法通りの身支度だが、シュンの衣装には、メイド20人を1年間雇えるだけの金がかけられている。 それが悪いとは言わないが、その金はシュンが働いて得たものではない。 兄はともかくシュン自身は、領地を切り売りして糊口をしのぐことしかできない貴族の馬鹿息子と大差ない存在なのだ。 それにしても兄は楽観的すぎるのではないかと、シュンは思ったのである。 シュンは、16歳という若年を考慮しても、自分に男性的魅力が希薄なことを自覚していた。 幼い頃には、外出した先で見知らぬ少年に一目惚れされプロポーズされたことさえある。 その上シュンはまだ学業途中の学生の身で、兄の仕事の手伝いすらしたことがない。 結婚をするには若すぎると訴えても、シュンの兄は、婚約だけでいい、貴族と縁続きになることが商会の発展に繋がるのだと言い張って引かなかった。 そういう経緯で――浮かぬ顔をしたシュンは、兄と共に4頭立ての馬車に乗り込み、問題の男爵邸に向かったのである。 |
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シラクサの守護聖人。眼病患者の守護聖人でもある。
キリスト教に改宗後、かつての婚約者が自分の目の美しさを忘れられずに悩んでいると聞き、自分の目をくりぬいて彼の許に届けさせた(異説あり) |