翌日の昼下がり、薔薇の花束を持って、シュンを訪ねてきた紳士がいた。
約束はしていないということだったが、来客の名を聞いた執事は、礼装した貴族を追い返すことなど思いもよらず、シュンに彼の訪問を取り次いできたのである。
シュンは――シュンもまた、その名を聞いて慌てて客間に足を運んだ。
シュンが客間のドアを開けると、そこには本当に、昨夜タンカービル男爵家の舞踏会でシュンを見詰めていた あの金髪の青年がいた。

彼がここにきた用件を考えることよりも、驚きの方が先に立つ。
戸惑いながらシュンが客間の中に入っていくと、彼は、側にいたシュンの家のメイドに、
「これをシュンに」
と言って、持参の薔薇の花束を手渡した。
いったい彼は何のために――どういうつもりで花束など持って――わざわざ 成り上がりジェントリーの家などを訪ねてきたのかと、シュンはその時になって初めて訝ったのである。

「シュンと二人きりで話したいんだが」
ハードウィック侯爵家の令息のその言葉で、シュンは、自分の後ろにいつのまにか兄が立っていることに気付いた。
振り返ったシュンを見ずに、兄が弟を子供扱いした言葉を吐く。
「これは社交界デビューしたばかりで、上流社会のマナーもろくに知らないひよっこだ。侯爵家の令息にしてハードウィック商会の跡取り殿に 失礼があっては申し訳がない」
「仕事の話をしに来たわけじゃない」

彼は不愉快そうな面持ちでシュンの兄の懸念を一蹴し、視線をシュンの上に戻した。
そして、唐突に彼の用件に入った。
「俺は決して運命論者ではないんだが、夕べ、タンカービル男爵夫人の舞踏会で、おまえの姿を見た瞬間に運命を感じたんだ。俺はおまえを愛している。俺を受け入れてくれ」
シュンが目を剥いたのは、マナーも何もないヒョウガの言葉使いや態度のせいではなく、もちろん彼が口にした用件の内容のせいだった。
いったいいつ、自分は彼にそんな告白をされるようなことをしたのか、シュンには全く心当たりがなかったし、そもそもそれは突飛に過ぎる申し出である。

ヒョウガの申し出に仰天したのは、無論、シュンだけではない、
それは、シュンの兄も同様だった。
だが、まさか英国内に40とない侯爵家の令息を、新興ジェントリーの当主風情が怒鳴りつけるわけにはいかない。
そんな訳で、シュンの兄の驚きと憤りは、彼の弟に向けられることになったのである。
「シュンっ、俺は貧乏でもいいから、貴族の令嬢を掴まえてこいと言ったんだ! 貴族の令嬢だ、令嬢! 令息じゃないっ!」
そんなことを言われても、シュンとて困るのである。
シュンは、英国屈指の名門貴族の令息を掴まえたつもりはなかったし、掴まえようとしたこともなかったのだ。

「ぼ……僕、この方とお話するのは今日が初めてです。夕べ、確かにお姿は拝見しましたけど、一言も口はきいてません」
「なに?」
「お名前は男爵夫人が教えてくださいましたけど。夕べの舞踏会で、男爵夫人は、ヒョウガさんはご自分の花嫁候補を探しに来ているんだって言ってました」
シュンの兄は、シュンのその言葉ですべてを了解した――了解したつもりになった。
事情がわかれば、シュンの兄にとって未来のハードウィック侯爵は ただの粗忽者でしかなかった。

「わかった。貴様は、シュンを男装した少女と思い込んだんだな? 残念ながら、これは俺の弟だ。そして、俺の弟は男だ、オトコ!」
事実ではあるが、微妙に傷付く説明の仕方である。
シュンは右の手で自分の胸を押さえた。

「そんなことは百も承知だ。だが、それがどうだというんだ? 今時、時代錯誤なことを言う兄貴だな。シュンが男だろうが、男装していようが、そんなことは俺の恋の障害にはならない。全くの無問題だ」
それは、聞きようによっては非常に情熱的な恋の告白だったかもしれない。
だが、やはり、持って生まれた性を無視されることは、あまり喜ばしく感じられることではない。
シュンの胸は、ヒョウガの告白にも微妙に傷付いた。
だいいち、ヒョウガには無関係かつ無問題でも、一般的にはそれは社会的な大問題なのだ。
英国では反同性愛法が定められ、その法は立派に機能している。
人気作家として絶頂期にあったオスカー・ワイルドが、アルフレッド・ダグラス卿との同性愛の罪で投獄され、社交界が騒然となったのはつい昨年のことなのだ。

「貴様はシュンと話すのはこれが初めてなんだろう。法に触れる同性愛も大問題だが、シュンの気持ちは更に問題ではないのか? 貴様はシュンの気持ちを無視するか」
シュンの兄の言うことは、実に常識的かつ正論である。
だが、つい昨日まで、貴族の称号を手に入れることに躍起になって、弟の気持ちを無視していたのは彼自身ではなかったか。

「シュンが俺を嫌いだと言っているのか」
「嫌いも何も、シュンはおまえなど知らないと言っているんだ!」
「そんなことは障害にはならない」
そう言われてしまったら、世界中の恋に障害などないことになってしまう。
が、余人は知らず、ヒョウガはそうであるらしい。
それまでシュンの気持ちどころか、その場にシュンがいることさえ忘れているようだったヒョウガは、つかつかとシュンの側に歩み寄り、そしてその手を握りしめた。
それから彼は、恐ろしいことに全くの真顔でシュンに告げたのである。

「シュン、俺はおまえを愛している」
「あの……」
「これは運命の恋だ。おまえもそうだと言ってくれ」
「僕は――」
「俺を好きでなくても、多少無理をしてでも、そう言ってくれ。そうすれば、おまえの頭の固い兄貴は二人の仲を許してくれるそうだから」
「そんなことは言っとらーん !! 」

相手が英国屈指の名門の令息だろうが女王陛下だろうが、そんなことはもはやシュンの兄にとっては、それこそ問題ではなかった。
彼は客間のドアを開けると、
「誰か!」
の一言で、数人の下男とメイドをその場に呼びつけた。
そして、彼等に、
「この気の触れた男を追い払え!」
と命じた。
が、ここは彼の家であると同時に、英国領内である。
たとえ気が触れていても、使用人が貴族に手をかけることはできない。
主人の命令に従う者は、その場に一人もいなかった。

仕方なく、シュンの兄自身がヒョウガの腕を掴みあげることになったのだが、ヒョウガはすぐにその手を振り払った。
そして、互いに100年来の仇敵を見るような目で睨み合う。
シュンは慌てて、牙を剥き合っている紳士たちの間に割って入り、彼等に上流階級に属する者にふさわしい自制を求めることになったのである。
仮にも英国紳士が、たくさんの召使いの目のあるところで取っ組み合いなど始めてしまったら、それはあっという間に彼等のネットワークを通じて、他家の人間の知るところとなるだろう。
それこそ、タウンゼント準男爵家とハードウィック侯爵家は、社交界の物笑いの種になってしまうのだ。

「二人とも、乱暴なことはやめてください」
ここは、シュンの兄の家であると同時に英国領内。
更に重ねて、人間の住む世界だった。
人間界とは つまり、階級クラスよりも厳しく絶対的な力を持つ“愛”という法に支配される世界である。
その絶対的な力の前に屈した二人は、いかにも不承不承といったていで、シュンの言葉に従うことになったのだった。

「また会いに来る」
と言い残して、ヒョウガはシュンの家を辞していった。
彼を乗せた馬車が門を出ていくのを確かめたシュンの兄が、
「おまえはしばらく屋敷の外には出るな。危険だ」
と、シュンに厳しく命じる。
いったい何がどうなっているのか、ほとんど理解できていなかったシュンはただ、貴族の称号を得るための花嫁物色の仕事から(一時的にとはいえ)自分が解放されたことを知り、安堵の息を洩らしたのである。



■ オスカー・ワイルドの投獄 : 1895年



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