昨日のミスに懲りた瞬は、しばらく外出を控える決意をし、その旨を彼の仲間たち――星矢と紫龍――に伝えた。
いわゆるショッピングという行為が苦手な彼等に、瞬は、外出のたびに小用を頼まれることが多かったのだ。

「それは構わないけど」
という前置きをしてから、星矢が鹿爪らしい顔で瞬に尋ねてくる。
「おまえ、なんだって門限10時なんてアホらしい約束事の遂行に命賭けてるんだよ?」
星矢の口調は、『尋ねる』というよりはむしろ『非難する』という表現の方がふさわしいものだったかもしれない。
この城戸邸で、青銅聖闘士たちにそんな規則を強要する権利を有するのは、この屋敷の所有者である城戸沙織しかいない。
しかし、彼女は、彼女の聖闘士たちにそんなことを求めたことはない。
瞬の『門限10時』という規則は、氷河と瞬の間にだけ成立し有効とされている規則で、瞬はその規則を無視しようと思えば、いつでもそうすることは可能なのだ。

「門限ってのは、夜出歩くのが危険だったり、夜の街での徘徊に教育的な問題があるとみなされるお子サマに課せられる決まり事だろ。おまえは小学生か幼稚園児かよ?」
かてて加えて、城戸邸の警備は24時間体制、10時に門が閉鎖されるわけでもない。
無論、瞬が門限を破ったところで、某シンデレラ姫の物語のように、魔法が解けて馬車がカボチャになるような事態になることもないはずだった。
「仮にも聖闘士のおまえが、危険な目になんか合うはずないし、だいいち氷河はおまえの行動を制限する権利なんか持ってないだろ」
たとえ二人がご昵懇じっこんの間柄でも、瞬には氷河からの一方的に押しつけを拒む権利があるはずである。
しかし、瞬は彼の拒否権を発動することもなく、ひたすら氷河の命令に従っている。
星矢には、瞬がそんなふうでいる訳が、どうにも解せなかったのだ。

が、瞬には瞬の都合というものがあり、だからこそ瞬はその理不尽な規則の遵守に命を賭けていたのだ。
とはいえ、それは、『瞬の都合』というよりは『氷河の都合』といった方が正しいものだったが。
「氷河が嫌がってるのは別のことだよ。その……僕が、氷河以外の誰かに――」
氷河が何を“心配”しているのかは、無論 星矢にもわかっていた。
星矢が言いたいことは、その“心配”が無意味であり横暴だということだったのだ。

「変な野郎に声かけられたって、おまえは簡単に追い払えるだろ。そうじゃなくて、おまえの浮気を心配してるっていうのなら、門限なんか決めたって無意味だって言ってるんだよ!」
「浮気は昼間でもできることだしな」
紫龍が、星矢の言いたいことを実に簡潔に代弁する。
星矢が言いたいことは、つまり、瞬の心を誰かに奪われたくないのであれば、氷河は別方向での努力をすべきだということだった。
身体だけを、しかも夜だけ縛りつけても、それは有効な浮気封じにはならないのだ。

が、瞬は、そうは思っていないらしい。
瞬は、氷河が自分に課す規則の有効性を認めた上で、彼の命令に従っているらしかった。
それが自ら進んでのことなのかどうかは、ともかくとして。
「門限がある限り、僕、浮気なんてできないよ」
「なんでだよ」
「氷河って桁はずれに強いんだ」
「本気出して闘ったら、おまえの方が強いだろ」
「もう……!」

星矢としては、それは、単に彼が認識している事実をそのまま言葉にしただけのものだった。
そもそも彼がこの話題を振ったのも、理不尽な門限を無理強いされている瞬を気遣ってのことである。
だが、星矢の厚意は、瞬にはあまり通じていなかったらしい。
瞬は少々甲走かんばしった声で星矢を怒鳴りつけてきた。
「夜の話をしてるのに、どうしてそんなとんちんかんなこと言うの! そうじゃなくて、氷河はセックスが強いの! 激しいの! 濃厚なの! 普通じゃないの!」
瞬が大声を出すのは瞬の勝手だが、その発言を聞かされる人間の立場も考慮してほしい――と、星矢は思ったのである。
瞬の訴えは、室内に響き渡るような大声では聞かされたくない類のものだった。
「んなこと、そんな大声でわめくなよ」
「大声出させたのは星矢でしょ!」
瞬の声のボリュームが更に上がる。
瞬は相当ストレスを溜め込んでいるようだった。

「だから、何ていうか――。僕が毎日10時の門限を守るってことは、氷河にとっては、ほんとはどうでもいいことなの。氷河にとって重要なのは、10時には帰宅、12時には就寝っていう生活習慣を守ることの方なんだよ。毎晩氷河の相手させられてたらね、氷河に精力吸い取られちゃって、僕は、体力もだけど、それ以上に気力が失せちゃうの。復活までに最低20時間はかかる。僕は、30分で復旧する電車の送電線なんかとは違うんだから。もちろんも浮気なんてする気にならない。本気の恋なんてのも、する気にならない。氷河以外の誰かを好きになろうなんて考えることもできないくらい、僕は氷河に心身を疲弊させられてるんだよ!」

「氷河は、それを見越して、おまえに門限――というか、10時以降の在宅を義務づけているわけか」
だとしたら、確かに氷河にとっては『門限10時』という規則は有効にして有益なものであるのかもしれない。
氷河のさもしい計算高さに、紫龍は感嘆しつつ低く唸った。
しかし、氷河にとっての効と益のために、瞬の人権が無視されているのは紛う方なき事実である。――事実であるように、星矢と紫龍には思われた。

「おまえ、氷河にそんな心配されるほど浮気性だったっけ?」
「そんなことないよ。僕、初めて好きになった相手が氷河で、そういう関係になったのも氷河とだけで、そのあとはもう氷河にがんじがらめで、もちろん浮気なんてしたことないし、心変わりどころか、他の誰かに目移りしたことだってない」
「氷河しか知らないのに、よく氷河が“強い”とわかるな」
突然瞬の話の腰を折って、紫龍の冷静な突っ込みが入る。
もちろん紫龍は、瞬の言葉を疑ったわけではない。
彼は、純粋に疑問だったのだ。

そして、紫龍の疑念に対する瞬の返答は、
「わからないわけないでしょ。聖闘士である僕が、ほんとに毎晩、氷河のせいで僕はこのまま死んじゃうかもしれないって思うんだよ。普通の人間ならとっくに死んでるよ!」
というもので、それは紫龍の“純粋な疑問”を氷解させるのに十分な説得力を持っていた。
決して、第三者が聞いて楽しめるような内容ではなかったが。

「でも、だったらなおさら、門限10時なんていう一方的な押しつけはやめてほしいって、氷河に言うべきだろ。死にたくなかったら」
「そりゃあ……」
瞬の語調が、初めて弱まる。
瞬も決して、氷河の横暴を喜んで受け入れているわけではないようだった。
氷河の態度を尋常ではないと思い、また 疲れてもいる――らしい。

「でも、言えるはずないよ。氷河の独占欲って普通じゃないんだから。氷河はほんとは、一日中 僕を監視していたいんだと思う。僕の外出を許してくれてるのだって、氷河にしたら、僕の人権を尊重するために相当無理して我慢して、寛大な振りをしようと努力してのことなんだから……」
それを瞬は、『寛大』と言い、『努力』と言う。
「氷河は、僕がこうして星矢たちと話してることにだって焼きもち焼くの。僕、氷河のいないところで30分以上星矢たちと話をしたら、何を話してたのか、あとで氷河に報告しなきゃならないんだから。星矢や紫龍だから、30分以下は報告しなくていいんだよ。これが他の誰かだったら、宅配便のお兄さん相手でも、交番のお巡りさん相手でも、交わした会話を一言残らず氷河に報告することが、僕には義務づけられてるんだ」

もしかすると、これは、氷河の独占欲よりも、氷河の“命令”を“義務”と認め受け入れている瞬にこそ問題のあることなのではないかと、星矢は思ったのである。
瞬がこの状況から逃れたいと本気で考えない限り、決して瞬は自由を取り戻すことはできないのではないか――と。
人間社会における自由とはそうしたもの――天から降ってくるものではなく、自らが欲し、手に入れるための努力をしないと得られないもの――なのかもしれない。
そして、だが、瞬は、自由よりも我が身の安全を優先せざるを得ない状況に追い込まれている――ようだった。

「今の状況でも、氷河はかなり我慢してるの。へたに刺激しないでよ。へたすると、僕、ほんとに氷河に監禁させられちゃ――」
「何を話している?」
突然、その場にいるはずのない男の声が響いてくる。
その声に脳天を撃たれでもしたかのように、瞬は掛けていた椅子から飛び上がり、ラウンジのドアを振り返った。






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