――そこに瞬がいた。
寒さを感じない身体を持つ瞬は、薄いシャツブラウス一枚だけの格好で、灰色の海のほとりに立っていた。
海風が瞬の髪に絡みついて、不思議な色をしたそれを揺らしている。

「瞬、なぜ……」
なぜ生きているのだと訝る前に、これは幻に違いないと、俺は思った。
俺を速やかな眠りにいざなうために、氷の海が見せてくれる幻なのだ、と。
幻が、ゆっくりと唇を動かす。

「ここだろうとは思ったけど……。氷河、この場所のこと詳しく教えてくれなかったから、捜すのに手間取ってたんだ。シベリアって広いんだもの」
幻でも抱きしめたかった。
幻でも、瞬なら温かいに違いない。

幻が、俺の方に歩み寄ってくる。
幻は、その身体と眼差しに、本当に体温を備えていた。
その上 微笑という魔法を添えて、瞬の幻は信じ難いことを俺に語り出した。
「氷河。僕は、氷河の血で不死になったんじゃないの。僕は最初から不死だった。僕の両親もそうだった。氷河に初めて会った時、僕の家族は魔女の疑いをかけられて村人たちの手にかかって死んでしまったけど、それはあの地方では時々発作のように起こる事故で――。あの事故がいつもの発作と違っていたのは、あの城の住人たちが、ある意味、本当に魔女だったことだよ」

「おまえが……不死……?」
俺が信じられない思いで呟くように言うと、瞬はゆっくりと頷いた。
「僕は一人でも生きていけるの。この身体を保って存在するだけなら、ひとりでもできる。僕の意思がそう望むのなら」
「なら……なぜ」
ならば、なぜ、俺を必要としないのに、瞬は俺についてきたんだ。俺と いてくれたんだ。
俺に毎夜あんなことをされても、俺の許から去っていかなかったんだ。

「僕が氷河といたかったから」
俺の疑念を見透かしたように、瞬は事も無げにそう言った。
「氷河のせいで不死になったと思わせておけば、僕は一人にならずに済むし、氷河は僕を信じてくれるだろうと思った。まさか、氷河があんな迷いに捕らわれるなんて考えてもいなかった」
『あんな迷い』とは、熱にうかされたような俺のラブレターに綴られていたことを言っているのだろう。
驚きのあまり、俺は、自分の書いたガキじみた手紙の内容を恥じることさえできなかった。

「僕は、氷河に来いと命じられたから氷河と一緒に行くことにしたんじゃないの。僕は、僕自身が氷河と一緒にいたいと思ったから、僕自身の意思でそうすることを決めたの。氷河のその青い目に惹かれて――」
瞬は、最初から俺と同じものだったと?
そんなことがありえるのか?
だとしたら、俺は、100年もの間、何も気付かずに瞬の主人面をしていたことになる。
その上、瞬は、自分の意思で――。

「おまえは、自分の意思で俺に身を任せたというのか」
「そうだよ」
「嘘だ」
嘘だと思った。
瞬は、俺のために、俺をこの世界に引きとめるために嘘をついているのだと、俺は思った。
俺は、そう思わずにはいられなかったんだ。
瞬自身がそれを望んでいたというのなら、瞬はなぜいつも、羞恥と戦うことなしに俺を受け入れてくれなかったんだ?
羞恥と戦う振りをして、瞬はいつも瞬の本来の意思と戦っていたのではなかったのか――。
俺がそう考えるのは不自然なことだろうか。

「嘘だ。俺に身を任せる時、おまえはいつも つらそうにしていた」
込みあげてくる苦渋に耐えて、俺はそう瞬に告げたのに、瞬はあろうことか、子供の駄々に困っている母親のように軽やかに苦笑した。
「だって……だって、僕は氷河に嫌われたくなかったんだもの。僕は氷河の好みくらい知ってる。僕が自分から身体を開いて氷河を欲しがったり、最初から盛りのついた獣みたいに声をあげたりしたら、氷河は興醒めするだけでしょう?」
「……」
それは――否定できない。

「だから、僕は我慢するの。喘ぎたいのを我慢して、氷河を好きだって叫びたいのを我慢して、自分のしたいこと何もかもを我慢して、僕は、氷河が僕の限界を超えさせてくれる時を待つんだ。そうして、僕が氷河のせいで我を失って、僕自身を見失えば、僕はやっと正直になれる。……矛盾した話だけど」
この異様に頭のいい魔女は、いったい何を言っているんだろう?

「氷河がどんなふうに僕に限界を超えさせてくれるのか、氷河に求められるたび、僕はそれが楽しみで――楽しんでた。そうしてもらえることが嬉しかった。僕は、氷河とのことが嫌だったことなんて一度もない」
この異様に可愛らしい魔女が言わんとしているのは、多分、
「僕の身体、普通の人間よりずっと冷静にできてるの。僕に、あの限界を超えさせることができるのは、氷河だけだと思うよ。僕の心が、それを氷河にしか許していないから」
この魔女が、俺を愛してくれているということだ。
100年も一緒にいて何も気付かずにいた愚かな俺を、瞬が瞬自身の心で――。

「僕は、僕の血で自分の仲間を作ることもできるの。氷河に会えなかったら、そうしていたかもしれない。でも、僕は氷河に会えたから、そうする必要がなかった。僕は氷河に感謝してるよ。そして、心から愛……あの……」
俺が最も言ってほしいと思っている言葉を、瞬は、途中で途切らせた。
俺は、あまりに強く瞬を見詰めすぎていたらしい。
瞬は、俺の瞳を上目使いにちらりと見やり、やがて恥ずかしそうに頬を染め、その瞼を伏せてしまった。
これが計算尽くのことでも、作為のない仕草だったとしても、瞬は俺を誘惑する天才だ。






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