「氷河にそういうことされる夢ばかり見る」 客間の肘掛け椅子に腰をおろして俯いた瞬の呟くような告白は、ひどく思いがけないものだった。 それまで傍観者を決め込んでいた紫龍までが、驚いて顔をあげる。 「……夢ぇ !? 」 星矢が、遠慮のない素頓狂な声を室内に響かせると、瞬は四肢を身の内に引き込むようにして、それでなくても縮こまらせていた身体を更に小さくした。 「卑怯だと思う。その夢の中で、僕はいつも被害者なの。僕は逃げようとしてるのに、氷河は無理矢理僕を捕まえて、あの……」 「ナニをするってか?」 星矢がわざと下卑た言葉を用いて、瞬が口にできない言葉を代弁する。 瞬は、星矢の言を否定しないことで、彼の推察を肯定した。 「でも、それは僕の夢の中のことなんだよ。それは、きっと、僕が望んでることなんだ」 もしかすると、瞬の先ほどの過剰反応は、瞬が氷河に襲われると勘違いしたからではなく、氷河が自分に対して無理強いに及ぶ夢を見ていたところに、本物の氷河が現れて混乱したせいだったのかもしれない。 そう考えて、星矢は、やっと合点がいった。 そして、これですべての問題が解決したような気になったのである。 「なら問題ないじゃん。しちまえよ。で、結果を俺と紫龍に報告すること」 「できないよ!」 が、事態は、星矢が思うほど単純なものではないらしい。 最善唯一の解決策と信じて星矢が提示した案を、瞬は言下に却下した。 「多分、僕は、責任を負いたくないんだ。氷河が無理矢理したことだから、それは僕に責任のあることじゃないって、そう思っていたいから、だから僕はそんな夢を見るんだ……!」 「いや、でも、それって夢の中でのことなんだろ? おまえにだって、どうしようもないことじゃないか」 瞬は、思い悩んでもどうにもならないことを思い悩んでいる。 そんなことは時間と労力の無駄だと、星矢は思ったのである。 が、その無駄なことをせずにいられないのが、瞬という人間だった。 「夢の中でまで! 僕は卑怯なんだ。いつもいつも受け身で、自分から働きかけようとしないで、僕は、きっと僕一人だったら、そこに邪悪があっても、自分から戦うことだってしないに決まってる。救いを求められたり命じられたりして初めて、何かしようとするんだ。僕は怠惰で卑怯な人間なんだ。自分から何かしようとしたことが、僕は一度もない」 「でも、それはさー……」 しかし、それは、瞬の場合、“控えめ”という美徳として、周囲に受け入れられていることである。 あとさき考えずに突っ走る青銅聖闘士たちの中で、瞬の“消極性”は、ある意味、必要かつ有意義な資質だった。 青銅聖闘士全員が我先にと危険の中に飛び込んで玉砕してしまったら、地上の平和を守る者がいなくなってしまうではないか。 瞬を悩ませているものが何なのか、星矢にはどうにも理解できなかった。 「芥川龍之介の『河童』を知っているか? もともと人間は、河童と違って、自主的に生まれてくるものじゃない。人は世界に投げ出されるものだ。そういう生き方も、さほど不自然なことではないと思うが」 氷河と星矢のやりとりの間は沈黙を守っていた紫龍が、見兼ねて口をはさんでくる。 瞬は、しかし、彼の言葉にも首を横に振った。 「でも、だからって、何でも流されるに任せていればいいってものじゃないでしょう」 「強姦願望というのも、男女両性にないものではないらしいぞ。ただし、『好きな相手に』という条件付きらしいが。積極的な受動といったところか」 紫龍は、瞬の“美徳”を肯定すべくを言葉を重ねたが、瞬は力無く項垂れるばかりだった。 瞬の考え方や心情が、紫龍には、星矢が感じるほどには奇妙なものに思えていなかった。 すべての人間がそうであるように、瞬は、望んでこの世界に生を受けたわけではない。 望んで親を失ったわけでもなければ、望んで聖闘士になったわけでもないのだ。 瞬の人生はこれまで、ありとあらゆることが他人の意思によって方向づけられてきた。 そして瞬は、そういう状況を、反発することではなく受け入れることで耐え続けてきた。 忍耐と受容という能力を身につけることで、瞬は、これまでの日々を生き延びてきたのだ。 そういう受動的な人間が、自分の望みを他人に訴えられるほどに“図々しく”なるためには、能動的な人間には想像もできないほど多大な勇気が必要なのである。 瞬のような人間には、行動ひとつひとつを、義務であり権利であると、他人に指示され、あるいは自身で納得できないと、自発的に何らかの行動を起こすことは、一種の恐怖でさえあるのだ。 そして、瞬は、おそらくは氷河が好きだから、氷河にレイプされてしまう自分というものを受け入れられずにいるのである。 そうなってしまった方が楽だと思っていても――思ってしまう自分を許せずにいるのだ。 |
■ 芥川龍之介 『河童』では、河童の子供は母親の胎内にいる時に、この世に生まれるかどうかを自分で決める |