瞬の気持ちを理解はできても、紫龍には瞬を納得させることはできなかった。
否、途中で、そうすべきではないと、彼は考え直した。
それはやはり、瞬に好かれている男の役目なのだ。

「氷河、何か言ってやれってば。ここは、おまえが気のきいたこと言ってやらなきゃならない場面だろ」
瞬の気持ちも この状況も全く理解できていない星矢は、だが、直感で、紫龍と同じ結論に辿り着いたらしい。
彼は、先程から呆然としたていでいる氷河に向き直り、仲間に勧告した。

「え? あ、ああ……」
氷河が、はっと我にかえり、顔をあげる。
瞬には、氷河の沈黙が、何よりつらく感じられていたらしい。
泣きそうな目で、瞬は、自分が好きな男を見上げ、見詰めた。
「氷河、僕のこと軽蔑してるの」
「いや、そうではないが……」
氷河が言葉を失っていたのは、そんなことのせいではなかった。
もしかしたら瞬は積極的に自分を好きでいてくれるのではないかという、これまで考えてもいなかった希望の姿が見え始めたことに戸惑って、彼は言うべき言葉を見付けだせずにいただけだったのである。

「おまえが、そんな普通の男みたいに淫夢を見るなんて、考えたことがなかったんで、驚いた」
夢などという、そんな不確かなものを深刻に受けとめて 悩み出すところは瞬らしいような気もしたが、そもそも瞬がそんなものを見るということ自体が、氷河には大きな驚きだった。
「おまえが本当にそんな夢を見るのか? 惚れた欲目もあるだろうが、俺は、おまえが実は汚れを受け付けない天使だったと告白されても信じるのに」
「僕はそんなんじゃないよ!」

どうして こんな時に、そんな馬鹿げたことを氷河は言うのか――彼の意図がわからずに、瞬は唇を噛みしめ俯いた。
「僕はそういうことしたくて氷河を好きになったんじゃないはずなのに……。だいいち、そんな夢見るのは、氷河に対して失礼だ」
「そんなこともないが……。まあ、夢の中のこととはいえ、俺より先におまえを抱く男がいるのは癪だな」
目許に微笑を刻んだ氷河に そう言われて、瞬はやっと彼の意図するところを理解した。
氷河は、この場でのやりとりを笑い話にしてしまおうとしているのだ。
が、そんな思い遣りは、今の瞬には つらさを増すだけのものだった。

「僕は卑怯なんだ……。いつも待ってるだけで、誰かが何かしてくれるのを待ってるだけで」
「……」
どうやら、この場でのやりとりを笑い話として片付けてしまうことはできない――瞬は、それを許さないつもりでいる――らしい。
そう悟ると、氷河もまた腹をくくり、真顔になった。

「天秤宮で」
「え?」
「おまえは誰かに俺を助けろと命じられたわけじゃなかったのに、俺を助けてくれただろう」
「それは……だって、あの時、氷河を助けられるのは僕しかいないと思ったんだもの」
「俺と寝られる人間もおまえしかいないぞ」
「そんなことあるはずない……」
「俺はそう思っている。おまえもそう思え」
「……」
そう思えと言われても、これは『そう思って』しまえることではない。
瞬の特異な常識でも、そんな夢のように都合のいい事態は“ありえないこと”だった。

「仲間のために自分の命を懸けるなんて、そんなの誰だってすることでしょう。それとこれは違う。僕は――今の僕は、自分のために、自分が得をすることを氷河に求めようとしているんだ。しかも、自分では責任を取らずに済む形で。そんなのはもう嫌なのに、いっそ僕は氷河にふさわしくないって現実を認めて 氷河を諦めてしまえばいいのに、そうすることもできなくて――」
瞬が口にする言葉が、氷河には いちいち嬉しがらせにしか聞こえない。
それでなくても瞬に惚れきっている男を更におだて、のぼせあがらせて、瞬はいったい何を企んでいるのかとさえ、氷河は思ったのである。

「どうして人は人を好きになるんだろう。こんな――こんなつらい気持ちになるなんて……。僕は、氷河を好きになったせいで、どんどん卑怯で欲張りな人間になっていく……」
決してでしゃばらず、人の前に出ず、消極的・受動的でいれば、他人に疎ましがられることはなく、嫌われず、憎まれない。
それは、自ら望んだわけでもないのに瞬が投げ出された世界で、無意識のうちに瞬が身につけた 生きるための術であり知恵だった。

すっかり身に馴染んでしまった その生きる術を、その生き方を、氷河が妨げる。
それは、危険だと、氷河は危険だと、瞬の内では警報が鳴り続けているのに、氷河を好きでいる気持ちは止められず、大きくなる一方で、瞬は、自分がこれからどうすればいいのかが わからなくなりかけていた。
こんな思いをするくらいなら、氷河を好きになどなりたくなかったと考えるほどに。






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