「なぜ俺がこんな馬鹿げた任務の司令官に任命されなければならないんだ」
群青の海は凪いでおり、ほどよく吹いている風は順風。
しかし、聖域のあるアテネからイタケに向かう船の上で、ヒョウガはいたく不機嫌だった。

「パリスと同じてつは踏まないように」
港を出る際、アテナがヒョウガに与えてくれたものは、ギリシャ中の男たちに求められた絶世の美女ヘレンを強奪することで 地中海世界を騒乱の渦に巻き込んだ男の名を用いた忠告ひとつだけ。
この事態を収束させるのに有効な情報も助言も、女神は彼に与えてくれなかった。
彼女が、初めて こういった任務の責任者に指名された若輩者のためにしてくれたことは、ヒョウガには気心の知れた同輩たちを彼の副官としてつけることだけだった。

若年と経験不足のために、ヒョウガ同様、未だ高い地位にはついていないが、アテナの側近としてアテナの絶対の信頼を得ている2人の副官は、しかし、全く無責任かつ気楽に船の旅を楽しんでいる。――ように、ヒョウガには見えた。
向かうところが戦場でないのだから――ある種の戦場には違いなかったが――彼等の呑気も致し方ないものだったろう。
彼等には、この旅は半ば以上が娯楽であるらしかった。

「上がいないんだから仕方ねーだろ」
セイヤが、いつまでも不満たらたらな態度でいるヒョウガをなだめるように言う。
しかし、その言葉で、ヒョウガの苛立ちは更に増すことになった。
「それなら、おまえでもシリュウでもいいじゃないか。なぜこんな仕事の責任者が俺なんだ」
この船には、ヒョウガとその副官であるセイヤ、シリュウの他には戦闘員は一人も乗っていない。
ヒョウガは、自分の目的地が戦場でないことが癪でならなかったのである。
こんなことのために、自分はアテナに仕えているのではない――彼の不満はその一言に尽きた。

「おまえが女好きで、男に興味ないところを見込まれたんじゃねーの?」
ヒョウガの苛立ちの理由に思い至っていないわけではないだろうが――むしろ、思い至っているからこそ、気の立っている仲間の心を和まそうとして――セイヤの発言はますます放埓になる。
「その女遊びにも飽きて、若くして隠居同然の身だからだろう」
「老師より枯れてるもんな」
セイヤは、最終的に問題の少年を引き取ることになったイタケの王の通称を出して、両の肩をすくめた。

老師と呼ばれる人物は、12人の黄金聖闘士たちの中で最年長、聖域の重鎮だった。
無論、ヒョウガたちとも面識がある。
矍鑠かくしゃくとしてはいるが、よわい100にもなろうかという老人で、シリュウをアテナの聖闘士に育てあげた、彼の恩人だった。
シリュウの生国は別にあるのだが、シリュウにとって このイタケへの旅は第二の故国に帰るようなものだったのである。
それでヒョウガは、シリュウにとってはこれが 問題の少年の許に向かう二度目の旅だということを思い出し、彼に尋ねてみたのである。

「クレタのヘレンは、そんなにとんでもない美少年なのか」
実は、シリュウは噂のヘレンに一度会っていた。
仲間たちの ていたらくを見兼ねた老師が、仲間たちの目を覚まさせるためにクレタ島に向かった際、シリュウは老師と共に かの国に渡ったのだ。
クレタの港に着くなり 問題の少年を押しつけられることになった老師は、クレタのヘレンを伴い領国へ、シリュウは事の経緯を報告するためにアテナの許に戻ったのである。

「美しくないわけではないが、名だたる英雄豪傑を手玉に取るタイプには見えなかったな。ほとんど子供だった」
「この ありえない事態はやはり、アテナに敵対する神の力が働いていると思うか? アテナはそれを心配しているのか?」
アテネの国をアテナと争ったポセイドン、冥界を司るハーデス、そして大神ゼウス――神々の中で最も傑出したアテナが人間に近付きすぎ、ほぼ人間界を掌握している現状を快く思っていない神は少なくない。
しかし、彼等は、神の力と権威をぐことになりかねない神同士の争いは避けたい――と考えてもいるようだった。

そんな神々が、自らの力を減じることなくアテナと人間の乖離かいりを図ろうとしたら、まずアテナの腹心として人間界支配の実務を任されている黄金聖闘士たちとアテナの離反を企んでも、それはさほど突飛な思いつきではないのだ。
というより、そう考えでもしなければ――神の力が作用していると考えでもしなければ――、よりにもよってアテナの腹心ばかりが揃いも揃って同時にただ一人の少年への恋に落ちるなど、考えられないことだったのだ。

「どうかな。俺にはごく普通の少年に見えた。話をしたことはないが」
「いわゆる“ひとかどの人物”にしか、その魅力はわからないんだって噂もあるぜ。その美少年にイカレることが大物の証なんだとさ」
セイヤの言葉に確たる根拠がないことは わかっていた。
それでもヒョウガは、『小物の烙印を押されることを恐れて、問題の少年にイカレ・・・た振りをしている者もいるのではないか――いてくれ――』と、言葉にはせず胸中で願ったのである。

「まさか老師までが、その魔性の者に狂っているわけじゃないだろうな? 老師は、もちろん頭を冷やせとカミュたちを説得してくれているんだろう?」
こんな話題で恩師の名を出さなければならない現実に、ヒョウガは渋面を作らずにはいられなかった。
ヒョウガの気持ちを察したシリュウが、ヒョウガの恩師の名を出さずに、更に悪い状況の可能性をヒョウガに示す。

「口さがない連中は、黄金聖闘士たちは老齢の老師が死ぬのを待っているのだと、無責任な噂を流しているらしいぞ」
「まさか、いくらなんでもそこまで狂ってもいないだろう。彼等は皆、アテナの最高位の聖闘士なんだぞ」
「恋は人を変えるからな。英雄も臆病者に、賢者も愚者に、清廉潔白の士も卑怯者に変貌させる」
「それなら恋などしない方が利口だ」
「しないと決めていても落ちてしまうのが恋の罠だろう」
「……」

至極尤もな意見だが、今ばかりは反論せずにはいられない。
ヒョウガがシリュウに向かって反駁の言葉を吐き出そうとした時、三段櫂船のトップマストに取りついていた乗員の、 
「イタケの島が見えてきました!」
という声が、船の甲板に響いた。






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