「氷河、僕、やっぱりオークションが気になるから……」 その夜。 氷河のベッドに、文字通り押し倒されてしまってからも、瞬は未だに覚悟を決めかねていた。 未練がましく瞬は氷河に訴えてみたのだが、氷河は今夜は瞬の我儘を許すつもりはないらしい。 「そんなことを考えられないようにしてやる」 言うなり、彼は、どこか苛立ったような乱暴さで瞬が身に着けているものを引き剥ぎ、瞬の脚に彼の脚を絡みつけてきた。 (こ……こういう時はどうするんだったっけ……。た……確か、自分も相手の脚の間に脚を入れて、それで相手に刺激を――) しかし、その記述のあったサイトは抽象的な表現が多く、具体的にどうすれば相手に刺激を与えることができるのかの記載がなかった。 瞬が戸惑っているうちに、衣服を取り除かれた瞬の胸に氷河の手が押し当てられる。 「ひゃっ!」 熱いのか冷たいのかの判断に迷うような氷河の手の感触に驚いて、瞬は上擦り かすれた声をあげた。 途端に、氷河の不愉快そうな声が 瞬の上に降ってくる。 「瞬、おまえ、ふざけているのか?」 「え……?」 氷河が彼の未熟な恋人を 苦りきった顔で見おろしていることに気付き、瞬は一気に全身を緊張させることになったのである。 「その色気のない声をどうにかしろ。興がそがれる」 氷河の言葉は、瞬にとっては、その眼差しよりも冷酷なものだった。 氷河の言葉に傷付きながらも、だが、瞬は思ったのである。 もしかしたら、これは、哀れな初心者に神が与えたもうた最後のチャンスなのかもしれない――と。 「文句言うなら、や……やめてもいいんだよ」 瞬は、無理に気を張って、挑むように氷河にそう言った。 こんな生意気なことを言う者が氷河の好むタイプの人間でないことはわかっている。 わかっているからこそ、瞬は今は氷河にそういう態度を示すしかなかったのである。 胸中では、 (やめようよ、氷河……!) と、ほとんど泣き出したい心境だったにも関わらず。 しかし、氷河は、瞬の期待に反して“やめて”はくれなかった。 彼は無言で愛撫を再開し、今度はその手を瞬の太腿の間に忍び込ませてきた。 反射的に目を閉じて――決してそれを性的な刺激を意識したからではなく――、瞬は必死に自身の対応を模索することになったのである。 氷河は“やめて”はくれない。 彼はどうあっても今夜、その行為を完遂するつもりのようだった。 となれば、瞬は、それを知っている人間を演じ切るしかないのだ。 (い……色気のある声、出さなきゃ……。でも、どんなのがそうなの……) 瞬は、そこからして わかっていなかった。 インターネットでは、“色気のある声”の具体例のデータまでは提供してくれてはいなかったのである。 (こ……こういう時、僕は手をどこに置けばいいの……。確か、10番目くらいに見たサイトのどこかに書いてあった……確か……確か……) 「瞬、おまえ、何を考えているんだ?」 瞬は、一度は読んだはずの記事の内容を思い出そうとして必死だった。 それが氷河の目には、瞬の心がここになく、何か別の考え事をしているように見えたらしい。 眉をひそめた氷河に咎められ、瞬の混乱はいよいよ大きく激しくなっていったのである。 「メ……メインコンテンツの何ページ目かにあったんだ」 「瞬!」 「あれは3ページ目の下の方――」 「ふざけるのは いい加減でやめろっ! 俺はおまえを――」 氷河の口調は、まるで瞬を憎んでいるようだった。 そう思えるほど、厳しく刺々しい。 「俺はおまえを本気で好きだから、おまえを俺のものにしたい。おまえには よくある夜の一つでしかなくても、俺には今夜は大事な夜なんだ。俺は遊びでおまえと寝るわけじゃないんだぞっ!」 大声で氷河に怒鳴られ責められて、瞬は本気で泣きたくなってしまったのである。 だが、ここで泣いてしまったら、すべては終わりなのだ。 『はなはだしい緊張や尻込み、涙や極端な怖れを見せることは、パートナーに心を許していないことを示すものなので、極力避けなければならない』と、 「5番目に見たサイトの“初心者が犯しやすいミス”のページに書いてあったんだ……」 「瞬っ、おまえ、俺をからかっているのか !? 馬鹿にしているのかっ」 瞬の懸命の努力が、氷河にわかろうはずもない。 色気のある声どころか、全く訳のわからないことを ぶつぶつと呟き始めた瞬に、氷河はついに堪忍袋の緒を切ってしまったらしかった。 そして瞬は――瞬もまた――限界を超えてしまったのである。 それ以上、知らないことを知っている振りを続けることは、瞬にはできなかった。 「そ……そんなに怒鳴らなくてもいいでしょう! 僕だって一生懸命やってるんだ! 僕だって……!」 思いがけない激しさで瞬に口答えされてしまった氷河が、一瞬あっけにとられた顔になる。 やがて彼は、その瞳から憤りの色を消し、代わりに不審と懸念の色を浮かべて、瞬に尋ねてきた。 「瞬、おまえ変だぞ……?」 変だったらどうだというのだ。 これまで一度も経験したことのない未知の行為に挑むという一事だけでも 不安でたまらないのに、その上、慣れない嘘はつかねばならず、事情を知らない氷河は冷たい。 これでいつも通りでいられる人間がいたとしたら、その方がはるかに変というものではないか。 瞬の瞳から、こらえ続けていた涙が一粒 零れ落ちる。 一度 堰を切ってしまうと、瞬の涙はもう止まらなかった。 ぽろぽろと涙を零し、瞬は自分にのしかかっていた男の肩を力任せに押しやった。 「あっちに行って! 僕に触らないで! 氷河なんか嫌い。どっかに行っちゃって! どっかに行っちゃえっ!」 「瞬……」 わんわん泣きながら そんなことを言われても、ここは氷河の部屋である。 氷河はその場に――涙を零し続ける瞬の側に――いるしかなかった。 |