彼が口にした色の名が、星矢の耳には届かなかったようだった。
瞬の戸惑いは 新しい友人に心安い態度で迎えてもらえなかったせいなのだと思ったらしく、星矢は、二人を執り成すような苦笑をその顔に浮かべた。
「気にすんな。こいつ死ぬほど無愛想なんだ。悪い奴じゃない」
そう断言した5秒後に、
「かなぁ……?」
とぼやく。

気のいい旧友の自信のなさそうなその言葉を聞いて、瞬は少し肩の力を抜いた。
星矢と紫龍の友人なら、“悪い奴”であるはずがないのだ。
「悪い奴なの?」
からかうように瞬が尋ねると、星矢は縦にとも横にともなく首を振り、最後に唇をへの字に引き結んだ。
「氷河はツラもいいし、運動神経もいいし、頭もいいんだけど、とんでもない欠陥人間でさ」
「もてすぎるのが玉にキズとか?」
「いや、もてない。壊滅的に もてない」

またしても、星矢は断言した。
それが想定外の答えだっただけに、瞬は意外の感を抱かずにはいられなかったのである。
星矢の断言は、今度は発言者当人ではなく紫龍によって打ち消された。――限定的に。
「そんなことはないだろう。毎年4月から5月までは異様にもてている」
「4月から5月? 春だけ?」

どこからどう見ても人間に見える この金髪の上級生は、実は発情期を有する人類外の生物なのだろうか。
瞬はもちろん、そんな考えを言葉にしたりはしなかったが、疑念が顔に出てしまったらしい。
瞬の考えを見透かしたように、紫龍が突っ込みを入れてきた。
「クマかサルのようだと思ったろう、今」
「ぼ……僕、そこまで具体的には考えなかったよ!」
瞬は慌てて紫龍の言を否定したのである。
それが『漠然とは考えた』事実の告白になっていることに瞬が気付いたのは、彼が 否定になっていない否定の言葉を最後まで言い終えてからで、自身の失言に気付くと、瞬は実に気まずい気分になった。
そんな瞬の様子を見て、紫龍は楽しそうに笑っている。
一見真面目そうな顔をしているにも関わらず、紫龍はひどく人が悪い男だった。

が、今 問題なのは、紫龍ではなく氷河である。
瞬はこっそりと氷河の顔を盗み見た。
新参者の失礼千万な発言に怒ったような様子は見せず、彼は 相変わらず無言無表情で瞬をじっと見詰めていた。
彼が、いったい何を考えているのかがわからない。
あからさまに不機嫌な顔をされた方が、まだ瞬も対処の仕様があるというものだった。
幸い、瞬の困惑と疑念は、星矢がすぐに晴らしてくれた。氷河の“発情期”を説明することで。

「あのさ、毎年春には何にも知らない新入生が入ってくるだろ。で、氷河は、この見てくれしてて彼女持ちでもないから、色めきたった女共がウンカのごとく こいつに群がってくるわけ。でも、そのうち氷河の本性が知れると、群がってたウンカ共は蜘蛛の子を散らすみたいにぱーっと消えていくんだ。中学の頃から毎年の恒例行事になってる」
「本性?」
「そ。氷河は重度のマザコンなんだ」
「……」

それは何とも意外な“本性”である。
この無愛想で寡黙な上級生が 相好を崩して母親に甘えている様など、瞬には想像もできなかった。
「こいつには、すっごい美人のお袋さんがいんの。母ひとり子ひとりで――氷河はガキの頃からお袋さんにべったりだったわけ。ほら、マザコンって女に嫌われるだろ」
氷河をまじまじと見詰めることになったのは、今度は瞬の方だった。
その視線に気付いたようでもなかったが、無口な金髪の男が、初めて意味のある日本語を口にする。

「俺はマザコンなわけじゃない。ただ、マーマを世界でいちばん愛しているだけだ」
「マ……マーマ……?」
何とも悩ましい響きを持つその単語に、瞬は思い切り面食らってしまったのである。
瞬は、てっきり彼の口からは否定の言葉が出てくるものと思っていた。
あるいは彼は黙秘権を行使するものと思っていた。
しかし彼は、でかい図体で堂々と、しかも真顔で宣言してのけたのである。
自分の母親を世界でいちばん愛していると。

瞬はあっけにとられ、しばし絶句した。
しかし、その数秒後、瞬の口許には自然に微笑が浮かんできてしまったのである。
「そういうのって素敵だよね」
皮肉でも揶揄でもなく、瞬は心の底からそう思った。






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