“会わないこと”で問題が解決するわけではない。 それは瞬にもわかっていた。 星矢や紫龍には、なおさらわかっていただろう。 その日一日 氷河と顔を合わせずに済んだことに心を安んじながら 帰宅のために教室を出た瞬は、校門の脇に、この学校では唯一 金色の髪を持った男の姿があることに気付くことになったのである。 咄嗟に瞬は逃げようとしたのだが、 「逃げるな。マーマに会わせてやる!」 という氷河の声が、瞬の足を動かなくした。 下校中の他の生徒の姿など視界に入ってもいないように瞬だけを見詰めて、氷河が瞬の側に歩み寄ってくる。 手を伸ばせば届くところまで来て、彼はその歩みを止めた。 「紫龍に、おまえには本当のことを言った方がいいと言われた。おまえを好きなら」 「あの……」 昨日と違って、氷河は瞬に触れようとはしなかった。 瞬は、そうしようと思えばいつでも逃げられたのである。 瞬がそうすることができなかったのは、言葉ではなく、物理的な力によってでもなく――『側にいてくれ』と無言で訴える氷河の青い瞳に、瞬の身体ががんじがらめにされてしまっていたせいだった。 途中、例の花屋で白いバラの花束を買った氷河に、瞬が連れていかれたのは墓地だった。 ここ10数年で新興住宅地として再開発が進んでいる郊外の町に、その開発に伴って作られた宗教宗旨宗派不問の公営霊園。 その一画にある白御影石の洋型墓の前に、氷河は買ってきたバラの花を置いた。 石には、氷河の母親のクリスチャンネームとおぼしき聖女の名が刻まれている。 「氷河……」 瞬は、これまで考えたこともなかったのである。 まさか氷河の母親が生きてこの世に存在していない――などということを。 星矢や紫龍は、氷河の母への思慕をあたかも現在進行形のもののように語っていたのだ。 「紫龍にも星矢にも言っていなかった。もっとも奴等は気付いていたようだったが」 瞬の困惑を察したように、氷河が彼の“マザコン”の実情を語り始める。 「俺の母は、5年前、俺が中1の夏に死んだんだ。夏休み中のことで――俺は実父と折り合いが悪かったから、へたに星矢たちに知らせると奴等に余計な心配をかけると思って知らせずにいた。結局、住み込みの家政婦と後見人の定期的な訪問を受け入れることで親父の家には行かずに済んだし、それまで暮らしていた家にいられるのなら転校やら引越しやらの面倒も起きない。だから、学校に事務的な連絡を入れるだけで済ませた」 一度言葉を途切らせてから、氷河はその顔に微苦笑を浮かべて、 「マザコンは女を追い払うのに役立つ肩書きだったから、わざわざ親族の死を宣伝してまわることもないと思ったしな」 と言った。 「氷河……」 瞬は、氷河が母親の死を周囲に知らせようとしなかったのは、本当は誰よりも彼自身が 母の死という現実を受け入れたくなかったからなのではないかと思ったのである。 母の死をなかったことにして、彼女の生前と同じ生活を続けたかったからなのではないか、と。 おそらくそうであったに違いない。 「マザコンなのは本当だぞ。身体が弱くて、ほとんど外出することのない人だったから、俺は彼女を寂しがらせないために、学校に行っている時以外はずっと彼女の側にいた」 決してすべてが嘘だったわけではないと 氷河は瞬に告げ、瞬は無言で彼に頷いた。 氷河の嘘を責める気には 到底なれなかった。 「小学生の頃に一度だけ、二人で蓼科の避暑地に出掛けたことがある。そこで ナデシコの花を見付けて――彼女に教えてもらったんだ。『ピンク』という色の名は、ナデシコの花の色を表すための言葉として生まれたものだってことを」 その色の名を、瞬は以前 氷河の口から聞いたことがあった。 では、あの時、氷河は、色の名ではなく花の名を呟いていたのだ――。 「バラみたいに 人に手をかけてもらわないと生きていけないような花よりナデシコの方がずっといいと、彼女は言った。好きになるのなら、そんなナデシコの花のような人にしろと。多分に自虐的に」 瞬はそれまで考えたことがなかった。 豪華で誰もが目をとめる美しいバラの花が、どこにでも咲く野草にすぎない小さな花を羨むことがあるなどということを。 「俺は、だから、嫌いだったんだ。あの小さくて強いピンク色の花が。だが、おまえに会った時、おまえはあの花に似ていると思った。本当にそっくりだと思った」 「氷河……」 「馬鹿げていると思うか。俺は、マーマがおまえを俺に引き合わせてくれたんだと思ったんだ」 花に例えられなど、少女のようだと言われるよりも腹立たしいことだと思うのに、瞬の胸には 少しも怒りに類する感情が湧いてこなかった。 白いバラの花のような氷河の母の思いが ただ切なく――ただただ哀しかった。 「俺はおまえが好きだ」 「あ……」 氷河は、瞬からの答えを待っているようだった。 彼の最愛の母の墓前。 そこには、豪華で美しい白い花が哀しく横たわっている。 瞬は、できることなら、今すぐ氷河を抱きしめ、その髪をその背を撫でてやりたいと思ったのである。 本当にそう思った。 だが、瞬は花でもなければ少女でもない。 氷河のマーマが、そんな人間を、彼女の愛しい息子のために愛し選んでくれたはずがないのだ。 だから瞬は、氷河を抱きしめることはおろか、氷河のための言葉を作ることさえできなかった。 長い沈黙のあとに、氷河は彼の欲するものを手に入れることを諦めたようだった。 「それだけだ」 短く告げて、瞬と母の前から立ち去ろうとする。 瞬には、そして、耐えられなかったのである。 耐えることができなかった。 今 氷河を抱きしめてやれないことにも、このまま彼と他人になってしまうことにも、ただの友人に戻ってしまうことにも。 「氷河……!」 かすれた声で、その名を呼ぶ。 ゆっくりと振り向いた氷河に 何といえばいいのか、何を言うつもりで自分は彼を引きとめたのか――瞬は一瞬、自分自身に戸惑った。 『僕も氷河が好き』とは、恥ずかしくて どうしても言うことができなかった。 「氷河……って、ほ……ほんとにどうしようもないマザコンなんだね」 「瞬……」 「きっと氷河は、一生 女の子にはもてないよ」 「かもな」 「ぼ……僕が引き取ってあげるしかないよね。こんなじゃ……」 可憐なピンク色の花を咲かせる あの健気な野草のように、もう少し可愛いことは言えないのかと、瞬は内心で自分自身に憤っていた。 だが、どうやら氷河はそんな言葉をすら健気と感じる特殊な能力を、その身に備えていたらしい。 次の瞬間、瞬は、彼が抱きしめてやりたいと思っていた人に 固く強く抱きしめられてしまっていた。 |