'eliエリ 'eliエリ ―我が神、我が神―






瞬が何者かに寝込みを襲われた。
といっても、襲ったのは氷河ではない。

秋も深まり、夜が日ごとに長くなっていく。
そんなある夜、深夜といっていい時刻、自室で眠っていた瞬の胸を圧迫し、何やら奇妙な呪文のようなものを唱えている 得体の知れない何ものかがいた――というのだ。
幸い、奇怪な気配に気付いて瞬が目覚めると、その黒い闇のようなものは疾風のような素早さでいずこともなく消えうせてしまったらしいのだが。

その奇妙な出来事があった翌日、瞬からの報告を受けた彼の仲間たちは、もちろん、当然、ごく自然かつ必然的に、一様に氷河に疑いの目を向けた。
瞬にそんなことをする人物に、彼等は白鳥座の聖闘士以外の心当たりがなかったのである。

「おまえな。気持ちはわからんでもないが、眠ってる瞬を襲うなんてのは、卑劣極まりない最低の男のすることだぞ!」
完全に冗談と思ってしまうことのできない口調で、星矢が氷河を責める。
これは星矢の笑えない冗談なのだと 自らに言い聞かせて、氷河はあえて仲間に反駁せずに沈黙を保った。

星矢の決めつけに慌てたのは氷河よりも瞬の方で、彼はすぐに、仲間を疑う仲間の非を責めたのである。
「なに言ってるの。あれは氷河じゃなかったよ。だいいち、どうして氷河がそんなことするの!」
「どーしてってなー ……」
責められた星矢が、反省の色も見せずに、ちらりと氷河に視線を投げる。
その視線の先には、瞬の信頼に、喜びよりも むしろ うら悲しさを感じているような氷河の 複雑を極めた顔があった。

「ま、同情はする。瞬がこんなじゃあ、おまえだって襲いたくもなるわな」
「俺はそんなことはしとらんっ!」
氷河が沈黙を守りきれなかったのは、彼が仲間の侮辱には耐えられても、同情には耐えることができなかったからだったろう。
責める色がなくなった分、星矢の冗談が冗談に聞こえなくなったせいもあったかもしれない。
氷河にとっては幸運なことに(?)、その場には 氷河をみじめな気分にしてくれた仲間の冗談を否定してくれる親切な他の仲間がいた。

「俺は同情などせんぞ! 貴様、本当にそんな不埒な真似を働いたのかっ !? 」
そのありがたくも親切な仲間は、言わずと知れた瞬の兄、某鳳凰座の聖闘士だった。
まるで弟の身に危機が迫っていることを その本能で感知したかのように、彼は数日前から城戸邸に帰ってきていたのだ。
『よりにもよって一輝が帰ってきているときに』と考えるか、『一輝が帰ってきたからこそ、氷河は事を急いだに違いない』と考えるかは、人それぞれだろう。

紫龍がそのどちらの考えに より強く傾いていたのかは定かではないが、彼は一応、瞬の兄に対して 氷河の無実を示唆する言葉を献上した。
「まあ、落ち着け、一輝。おまえが氷河を疑うのは至極尤もだが、氷河にそんな度胸があるとは思えないし、犯人が氷河なら、瞬には小宇宙や気配で すぐにわかるだろう。瞬は不審者が何者なのかわからなかったというんだから、犯人は瞬がこれまでに出会ったことのない者と考える方が理に適っている」
「俺はそんなことはしとらんっ!」
氷河が同じ言葉を繰り返したのは、彼の耳には紫龍の弁護が弁護に聞こえなかったからだった。
もっとも、紫龍の弁護が完全完璧に氷河の無実を証明するようなものであったとしても、一輝の疑惑は決して解けることはなかっただろう。
理に適う適わないの問題ではないのだ。一輝は氷河を最低な男だと思っていたいだけなのである。

それがわかっているから、氷河は口をへの字に結び、存在自体が不愉快でならない瞬の兄を睨みつけた。
決して無実の罪を着せられたからではなく。
一方、一輝の方も、内心の憤りを抑えきれずにいた。
一輝の場合は、氷河の卑劣を瞬の前で証明できないことに苛立って。

同じ人間を愛している者同士、仲良くすればいいものを――と思っていた時期が、2人の仲間たちにもあったのだが、それも今は昔。
どうやらこの2人の愛し方は、『決して瞬を独り占めしたいわけではないのだが、自分以外の誰にも渡したくない』という愛し方らしく、そのため当然2人の間に和解の可能性は皆無。
一輝と氷河が最終戦争ハルマゲドンに突入せずにいるだけでもありがたい――というのが最近の城戸邸住人たちの一般的な見方だった。

そういった ややこしい因縁の外にいる紫龍が、問題を本筋に戻す。
彼は、理に適ったことから導き出される結論――すなわち、瞬を襲った不審者は、信じられないことだが氷河ではないという結論――を前提にして軌道修正をかけてきた。
「その呪文のようなもの――というのが気になるな」
今ここで追及すべきは、氷河に抜け駆けして瞬の寝込みを襲ったものの正体なのである。
氷河がそんな卑劣な行動に走りかねない男であることの証明ではないのだ。

「そーゆー面倒くさいことは沙織さんに聞くのがいちばんだぜ」
氷河がそんなことのできる男ではないことを、本当は誰よりも強く確信している一輝は――確信できることが、彼の癪の種だったのだが――氷河弾劾を中断する星矢の提案に異議を唱えるようなことはしなかった。

「ま、おまえはあんまり気にすんなよ。俺たちが、その怪しい奴の正体をつきとめて、おまえが枕を高くして眠れるようにしてやっから」
星矢がそう言って、不審者追求作業に瞬が関わることを巧妙に阻止したのは、その得体の知れないものの正体が人外のものである可能性を配慮してのことだったろう。
事実、星矢がそう考えていたのかどうかを氷河は確かめなかったが、少なくとも氷河と一輝はそう察し、星矢にしては気配りの行き届いた対応に 内心で驚いていた。

その驚きはともかく、瞬は、以前にも冥界の王ハーデスに目をつけられ、ひどい目に合ったことがある。
万一 またしても妙なものに懐かれてしまったことが判明したら、瞬は、そんなものを呼び寄せる我が身を不審に思い、傷付くことになるかもしれない。
(氷河だけでも鬱陶しいのに……!)
これ以上瞬に いらぬ不安や心苦しさを抱かせたくないという気持ちは、その内容に多少の差異はあれ、瞬の仲間たちに共通した思いだったのである。






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