そういう訳で、不安そうな顔の瞬をその場に残し ぞろぞろとアテナの許に向かったのは瞬以外の4人の青銅聖闘士たちだった。
人間の持つ愛と優しさというものを愛し信じ、そのために地上の平和を守ろうとし、またその象徴でもある女神アテナ。
その女神アテナが、彼女の聖闘士たちから事の経緯を聞いて最初に口にしたのは、
「それが氷河でないのなら」
という仮定文だった。

とっとと押し倒して、あふれんばかりの愛と情熱で瞬の身体と心を内と外から包み込み、細胞の一つ一つまでが溶け合うような交わりがこの世にあることを瞬に教えてやりたい欲求を、ここまで必死に我慢しているというのに、なぜ自分はこんなにも信用がないのかと、氷河は挫けそうになってしまったのである。
一輝なら逆恨み、星矢たちなら冗談か、むしろ煮え切らない仲間を鼓舞しようとしているのだと思うこともできるが、その仮定文を持ち出したのは彼等の女神なのだ。
こころなしかアテナの目に憐憫の色が浮かんでいるような気がして、氷河の挫けかけた心が、今度は、アテナの評価に納得がいかないゆえの呻き声をあげる。

彼女の聖闘士たちの精神面での強さのレベルもきっちり把握しているらしく、沙織はそれ以上 氷河を追い詰めるようなことはしなかった。
「冗談よ」
もっとも沙織は、肩をすくめて謝罪しておきながら、即座にその言葉を再度繰り返したが。
「それが氷河でないというのなら、瞬を襲った不審者は、いわゆる魔のものだと思うの」
「酢の物なら食ったことあるけど」
星矢の出来の悪い茶々を、沙織は華麗に無視した。

「最初は夢魔むまの類かとも思ったんだけど、話を聞いていると違うようね」
「夢魔ってなんだよ? 馬なら知ってるけど」
駄洒落も下手すぎると無視しきれないものがあるらしい。
沙織はさすがにむっとして、星矢の駄洒落を訂正した。
「馬じゃなくて夢魔! 夢魔っていうのは、眠っている人の胸の上に座って悪夢を見せると言われている魔物よ。夢魔の中でもインキュバスやサッキュバスと呼ばれるものたちは、人間に淫猥な夢を見せて、人間の生命力を吸い取るとも言われているわね」

「それは違うでしょう。瞬が妖しい夢に惑わされるような奴なら、氷河もここまでみじめな男でいなくて済んでいるはずです」
「その通りね」
間髪を入れずに紫龍に頷くアテナを見て、氷河は捨て鉢な気分になってしまったのである。
それが世間の一般的な見方だというのなら、自分はその評価を甘んじて受けとめるしかない。――のかもしれない、と。

「瞬を襲おうとしていた者は奇妙な呪文を唱えていたと言っていたでしょう。夢魔はそんなことはしないのよ。となると、その怪しいものの正体は、人間と取引きをすることのある、いわゆる悪魔の類だと思うの」
「悪魔? それって何だよ? ……いや、知ってるけど――」
女神アテナの人間に対する愛と正義を信じて戦ってはいるが、星矢はギリシャの神々について詳しいわけではなかった。
そんな星矢でも、ギリシャの神々が存在する世界に“悪魔”などというものがいないことくらいは知っている。
だから星矢は、沙織が口にした単語に違和感を覚えたのである。

案の定、沙織が“悪魔”なるものを説明するために持ち出してきたものは、ギリシャの神々とは相容れない世界の宗教だった。
「キリスト教的に言えば、神に反逆して地獄に堕ちた元天使、もしくは、キリスト教布教の妨げになるとして邪悪なものにされてしまった異教の神、歴史を遡れば、アーリア人が信じていたデーヴァ族に行きつくとも言われているわね。ま、神とか悪魔とかいったものは、人間の意識が作るものだから、出自を気にしても あまり意味はないのだけど」

「んー……」
“悪魔”がどういうものなのかは、沙織の説明で星矢にも何とか理解することができた。
しかし、今 星矢が合点できずにいることはそういうことではないのだ。
彼は、なぜそんなものがギリシャの女神アテナの存在する世界に出現したのかということだったのである。
「よくわかんねーなー。それって、たとえばハーデスより強いのか?」

「一概に比較することはできないけど、ハーデスよりは下等なものと思っていた方がいいでしょうね。ハーデスは まがりなりにも神なのだし、地獄にいる悪魔たちは“神”に逆らって闇の世界に落とされた者たちだもの。ただし、悪魔というものは一神教の神に敵対する者だったり、二神教の善の神と対立する悪の神の眷属だったりするのよ。ギリシャの神であるハーデスの支配する冥界と悪魔のいる地獄は、違う世界にあるものと思った方がいいわ。というより、ハーデスの支配する冥界のある世界と、悪魔のいる地獄のある世界は、全く別のものなのよ」

「世界はひとつだろ」
「本来はね。でも信じるものが違う人間たちには、それぞれに信じる世界があるわけよ。世界も神も人間が作るものでしょう」
「?」
やはり、わからない。
他の仲間たちは沙織の説明が理解できているのかと疑って、星矢は、その場にいる仲間たちの顔を順に見回した。

紫龍はわかっているような顔をしていたが、彼はいつも分別顔をしている男なので、彼が沙織の言を真に理解しているのかどうかは、星矢には判断できなかった。
一輝と氷河に至っては、これはもう完璧に瞬のことしか考えていない顔をしている。
彼等には瞬の身の安全が何よりも大事なのであって、瞬を襲おうとしたものが何者であるかということは さほど重要なことではないらしい。
その得体の知れないものは、瞬に害を為そうとしたものであり、ゆえに彼等にとっては“敵”という概念でひとくくりにしてしまえるものであるようだった。

沙織も、そのあたりは承知しているらしい。
彼女の説明は、もっぱら星矢に向けられていた。
「宗教というものは、神様がいるから成立するものじゃないの。大事なことは、神が存在するかどうかとか、神とはどういうものかということじゃなく、人間が何のために宗教を――ひいては神を――信じるかということなの。大抵は、自分は何のために生まれてきたのかとか、自分の生きる目的は何なのかとかいうようなことを真面目に考え抜いて、答えを見付け出せなかった人間が、自分は何らかの大きな意思によって生かされているのだと思い込むことによってできるのよ。その“何らかの意思”が神というわけ。つまり、神も宗教も、自分が生きていくために 人間が勝手に作ったものなのよ。それが悪いということじゃなくてね、それでその人が安らかに生きていけるのなら無問題だと、私は思うわ」

「沙織さん」
それまで無言で沙織の話を聞いていた紫龍が、彼の女神の名を呼ぶ。
仮にも神と呼ばれる存在であるアテナが、“神”を語る。
それは“神”の否定につながりはしないかと、彼は案じたらしい。

しかし、神である沙織は、実に軽快な口調で 至極あっさりと言ってのけた。
「でも、宗教というものは基本的にはそういうものだから、人は誰もが自分の信じたいものを信じるの。当然、神もたくさん。神がたくさんいれば、神様ごとに世界もたくさんあるわけよ。どこかの誰かさんが、『自分は瞬と出会うために生まれてきた』と信じて、そのために充実した人生を送れるというのなら、それも宗教でしょうね」

そう言って、沙織はちらりと氷河を見た。
彼女は決して、恋という異教を信じている者を責める目をしてはいなかった。
そんな氷河を責めているのは、むしろ瞬の兄の方だった。
のんきにそんな宗教を信じていられる男が、彼は憎くてたまらないらしい。
というより、彼は、自分の最愛の弟が 自分にとって最愛の弟であり、それ以上のものに為し得ない自分が憎かったのかもしれない。
彼にも“宗教”と思えるほどの出会いはあった。
今ではそれは、実際に宗教に等しいものだった。
彼女はその死によって、永遠に彼の人生を支配し続ける神なのだ。
その神に似ている“最愛の弟”を 他の誰かに渡すことなど、一輝は考えたくもなかった。






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